哲学するパラロス ブログトップ
前の10件 | 次の10件

厨②病だが、生きてゆく [哲学するパラロス]

妄想と現実。

どこで、区別をするのか?


今生きている、自分が現実だと感じている世界。

この世界が本当に現実だと誰が証明できようか?

単なる思い込みなのではないか?

我々が現実だと信じている世界は、モグラが地面の中で観ている夢の中の世界なのかも知れない。

何を持って実存とするか?

その定義があやふやである以上、妄想と現実を区別する術など存在しないのだ。

なのに、厨②病は、ぼっちになる。

理由は簡単。

その妄想が共感を得ない。

マジョリティとなりえないからだ。

脳内の無限とも錯覚される妄想に共感してくれる人間など、いない。

そうして、みんな妄想から覚める。

いや、生きてゆく為に覚めざるを得ないのだ。

けれど、私は人間はその時、無限の空想の世界を想像する感性を失うのだ。

厨②病の何が悪い?

人様に不快な思いを与えなければ良いだけだ。

思春期にみずみずしい感性を持ち合わせた人間の人生は豊かだ。

現実をただ生きる、ことなど誰にでもできる。

だが空想して、あらゆることに彩りを演出して生きてゆくことは、実は難しい。

換言すれば、人生を楽しむことは、豊かな想像力なしにはなかなか実現は難しいということ。

想像力は、創像力に繋がり、ものを考える習慣は困難に立ち向かうエネルギーに変わる。

厨②病でも生きてゆける。

ただ、気をつけなければいけないことは、人様に迷惑をかけてはいけない、ということ。

自分は特別な人間ではないけれど、自分の人生を楽しむことは自分にしかできない、

という当たり前のことを知ることが大切だ。

そこを、勘違いすると、逮捕されるよ。

理想も現実も夢も妄想も空想も何もかも、そう哲学さえ

人間が頭のなかで考え出すものの実存は証明できない。

けれど、生きている、という事象は存在するようだ。

ならば、事象そのものを、ダイレクトに楽しもう。

生きていれば、幸せになるチャンスはいくらだってある。全ては心の有り様だ。

自分という思惟の柵の中で、もがき苦しみ、あるがままの心で生きたいと願う。

それこそが、人間の最大の人間たる真価だと、私は信じたい。

だから、考え続ける。それこそが、在ることの定義だと今は感じるから。

中2病~1.JPG

他人に期待しない生き方 [哲学するパラロス]

帯状疱疹→ストレスです。

アトピー→ストレスです。

知らんがな!

ストレスは体によくないらしい。

なので、ストレスの原因を考察してミマショー!!

ストレスの原因は、思い通りにならないこと、と不安なこと、この2つがほとんど!

では、そのうちのひとつ、思い通りにならないことへのストレスの解消法!

「他人に期待しない」

これ!これに尽きます!

なんで、あの人あんなんなの!?

とか、

自分なら絶対そんなkとしない!!

とか、そういう他人への憤りは全てそ、の人に期待をしているからです。

あきらめましょう!

身軽になりましょう!

あなたの子供なんだから、博士や大臣にはなれません!

あなたの友人なんだから、そんなに頑張れるはずないじゃん!

他人への期待は基本甘えだと思うこと!

乱暴なようだけれど、これでずいぶん生きることが楽になるよ。

でもね、大切な人間は別。

よい人間関係にストレスがないのは、

「相手のことを全て受け入れることが出来ているから」です。

期待では、なく信頼。

信頼できる人間ばかりならば、ストレスなんて存在しないのにね。


41M+CjX5e1L__SL500_AA300_.jpg

アスベルガー症候群と綾波レイ [哲学するパラロス]

「あら、この子少しおかしいわね?」

そんなちょっとした違和感から、神経症の診断がつく。

他人との関係がうまく測れない。→自閉症

環境に適応できない。→適応障害

パチンコ大好き。→依存症

お酒大好き。→アル中

元気ない。→うつ病

急に元気。→双極性障害

ようするに、何かおかしければ、何かしらの診断がつく。

心は不確かだから、いつも、病気だとも病気jyないとも、言える。

私見だけれど、心理学も精神医学も、社会学の枝葉だと思う。

なので神経症の原因は社会。

病んでいるのは、個々人ではなく社会だ。

治療が必要なものは、このうそ800の社会である。

誰もが、「本心を口にせず当たり障り無い生き方をすれば、楽に生きることができる」ということを知り、

他人への必要以上な干渉をタブーとする。

そんな薄っぺらい大人たちを親に持つ子供の、コミュニケーション能力が高いハズがない。

親と社会が、正しく人間としての生き方を教育するべきだ。

正しい人間とは、相手のことを思いやることのできる人間のことだ。

だから「自分ちゃん」なプラグマティズムな大人は、正しくない人間だということになる。

だから、正しくない、おかしな親もついでに教育を受けなおすべきた。

あなたが、自閉症だと診断をつけさせた子供は、ただ感受性が強いだけかも知れない。

他人とうわべの付き合いができないから、KYなんて呼ばれているだけかも知れない。

人の心の有り様などわかる由もないのに、診断して値札をつけるな。

少なくとも親は、大人は、もっともっと意識するべきだ。

手本となるべく。

子供の前で、2面性を見せないで欲しい。

他人の悪口をこぼさないで欲しい。

大人が、まず、だらしないんだよ。

挨拶しないクソガキには、挨拶させろ。

部屋では帽子も摂らないバカには「部屋では帽子をとれ」と教えてあげよう。

それが、大人のしごとでしょう?

そのバカの親がバカでどうしょうもないなら、代わりに他の大人が教えてあげればよい。

シランプリするにも程がある。

かわいい、かわいい、と欲しいモノを与えて、他人の子供と比較するより、

自分が手本となり子供に背中を見せなさい。

そういった大人としての責任を果たすことのできる、そんな大人たちの作る社会ならば、

こんなに子供たちも精神的に病んでいない。

ちょっと、自閉症気味だった碇シンジくんは、本当に大切なものを見つける。

そして「他人との関わりを持たない生き方」を捨てる。

自分で考え、他人と積極的に関わる術を学習してゆく。

痛み、苦しみ、悩み。それらの全てがリアルに生きているということの証拠であり、

それらを乗り越えてでも誰かとつながりたいとおもうから人間なのだ。

アスペルガー症候群と診断のついた若者。

双極性障害とか、うつとかそれらしい確定診断をつけられた人たち。

本当に病気ですか?あなたの他人と違うは、個性ではないですか?

あなたの心の痛みは、あなたが人間である証拠かも知れない。

自分を信じて、勇気をだして踏み出そう。

せっかくの人生、「あなたが他人と少し違う」くらいで嘆き苦しむんで過ごすのは、あまりにももったいない。

人間は成長するのだ。

あなたを救うのは、精神安定剤なんかじゃない。

あなたが大切にしたい何かを見つけることだと思う。

人生は、病んで過ごすにはあまりのも短い。

綾波レイ浴衣.jpg

存在について「ある、ということ」 [哲学するパラロス]

哲学だなんて、そんなに難しいことじゃないんだよ。

物事の理を自分の頭で考えたならば、それはもう哲学だ。


現実にある、ということ。

存在する、ということの定義はまっこと難しい。

例えば今、目の前に、ぶチョリーナにもらったおやつの柿があるのだけれど、

これが「実在する」ということを立証するためには

「存在する」とうことがどうゆうことなのか、まず定義されていなければならない。

こういった問答を小学校5年の頃からずーーーっと繰り返している。


そして、、私はひとつの仮説に辿りついた。

例えこの柿に触れることができなくても、「存在する」ことにしよう。

そう、私の意識のなかで、頭の中に「存在していれば」「存在する」のだ。

私が、認識できること、これが、私の定義するところの「存在する」である。

要するに、概念として「あれば」良いわけだ。

だから、私の頭の中で想像して創像したものも存在するのだ。

そういう理屈なので、過去の大切な出来事や思い出も存在する。

亡くなった人も存在する。

何一つ失うものなどない。

ただ、触れることができないだけだ。

そういう風に考えてゆくと、

私という概念が、概念として存在を認めるかぎり事象は消失しない、ということになる。

信じれば、事象は「存在すること」にできちゃうのだ。

信じるモノは救われる。

そう、かの三大宗教の一つ、キリスト教の信者だって、神様を信じて「存在する」と信じているから

救われるのだ。

誰も無限の創像力と無限の認識能力を持ち合わせている。

くだらない常識くくりによる「実存と」いう「ある」に惑わされず、自分の概念を大切に生きてゆければ、

人生はそんなに寂しいものではないと思う。

41M+CjX5e1L__SL500_AA300_.jpg

ぼっちよ、胸をはれ! [哲学するパラロス]

友達ができない。

会社の同僚の子供の友達が、そういう悩みを抱えている、と相談される。

そういう考え方だから友達ができないんだよ?

と口にしたくなるけれど、社会人なので我慢。

何事もほしがるから手に入らないんだよ。

そもそも、友達って何だよ?

私は、友人がいるのかいないのか、そんなふうに考えたことはない。

けれど、

何かの節に

「あいつ、どうしてるかな?食べ過ぎてないかな?」

とか、

「あんなに色白くて大丈夫かな?」

とか、

考える人間はいる。

私はそれにこそ意味があると思う。

相手の中の自分など、知る由もないし、「知りたい」などと思うのは野暮で下衆。

自分が相手のことを好きだと大切に思い、心に留めていればそれで充分じゃないですか?

相手の中の自分が気になるのは、すべて自分の為。、

自分がよく思われたいからだ。

そんなこと、そんな確認のしようもないものを推測して、悩むなど正気の沙汰ではない。

どう思われようがいいじゃない。自分のなかで相手を大切にできているのならば。

必要なのは、大切にされたいではなく、大切にしたい、だと私は思う。

そういう相手に巡り会えていないのならば、いいじゃない、ぼっちで。

imagesCAPIL669.jpg

コーラとコーラフロート [哲学するパラロス]

コーラが好きなのは、えぬぐたん。

そのコーラにアイスを乗せると、コーラフロートになる。

今回、そのコーラの乗せるべき、フロートの部分。

すなわちアイスの部分が消失してしまった。

種島先輩の運んでいるコーラフロートが、コーラに成り下がってしまったのだ。

NEC_0414.JPG

別に最初からコーラだっだと思えばよいだけなのに、どうにも不愉快。

こんな些細なことでも本気で不愉快になるから不思議だ。

例えば、

①落とした一万円がでてくる。

②拾った一万円を落とす。


前者はめっさめさうれしい。

悪いことがあったあとに、よいことがあると、すごくうれしい。

①のケース。ちなみにこれを、心理学ではゲインロス効果という。

並べてくらべてみると、どちらも、プラスマイナスゼロのはずなのに、②のほうはダメージが大きい。


人間というものは、失ったものを重く受け止め、得たものを軽く考える生き物なのだとおもう。

残念な生き物なのです。

失ったものは、最初からなかったもの、ではない。

存在していたのに失ったもの、すなわち消失したものである。

持っていなければ失うこともない。

ということは、「何もモノを持たない人」のほうが幸せなのではないだろうか?

いやいや、それでは、人生寂しすぎるだろう。

ここで、ふと考える。

自分のもの、という執着を持つから、まずいんじゃない?

最初から、「自分のモノだ」、なんて思い込んじゃうものだから、

失うと自分のモノがなくなってしまった、ということで、苦しい。

最初から、誰かのモノを預かっている、とおもえば、だいぶん楽じゃないかしら?

他人のモノと思えば大事にするし。

ものに対する執着を失くし、さらに、モノを大事にできる究極のさくせん!

そうして、考えていくと、ひとつの疑問にぶつかる。

ところで、自分って、自分のモノなの?

まあなんか、自分で動かしている感覚はあるけれど。

自分自身って?

よく考えたなら、勝手に自分のモノだと思い込んでいるだけじゃないかしら?

そもそも、「自分」という概念がどこからきたのか、どこへいくのか?もわからないのに、

自分は自分のモノだなんて、なんだかおかしい気がする。

考えれば考えるほど迷走する。

本当に不思議。

多分、神様っていう概念はこのあたりのなんだか「説明のつかない問題」をクリアーにするために

生まれたのではないかしら?

神様から、借りている命、という意味で。

この「自分」がどこから来たのか、ということはまだしも、

どこへ行くのか?くらいは知りたいものである。

402890166.gif

気を使うってどうゆうこと? [哲学するパラロス]

よく考えてみました。

まず、自分という概念について。

自分という概念は、他人という概念があって存在しうる。

まあ、それはそうですね。ええ。

ということはですよ?

他人がいなければ、自分を定義することも難しい、ということになる。

他人がいないと自我という概念を保つことも難しい、ということ。

ちょっと極端な話になるけれど。
5d2fe8a62e90f3ec05af831a3ea75171.jpg
気を使う、という思考の根底には、

「相手に嫌われたくない、よく思われたい。」というもくろみがある、と私は思う。

これは、相手を思いやっているわけではない。

むしろ、真逆。

ツルセコハゲ丸である。

私は、よく「気を使う」と責められるけれど、

そんなことはれんれんない、と思う。

ただ、やりたいようにやっているだけだ。

嫌われてもいいや。自分は自分だし。

と思っているし、ダメなものは取り繕ったところでダメだもの。

では、「気を使わない」でどうならよいの?という話になる。

それは、多分、見返りを求めないこと。

見返りなんて、考えもしないこと。

気を使う、ことと、思いやり は違うと思う。

大切な相手には、しっかりと準備をして、

別に嫌われても構わないから、気を使わず「思っていること」を、本気で伝える。

ガチの人間関係は、格闘だ。できる限り偽らぬよう腹をくくりつけて挑まねば大怪我をする。

その結果失うものなら、最初から必要のなかったもの、縁がなかったのだ、ということになる。

本気で相手のことを考えている」その言葉が、それでも伝わらない相手ならば、合わないのだ。

合わせる必要等ない。良い悪いの問題ではない。

気を使って取り繕う必要など皆無だ。エネルギーの無駄だ。

そんなことやってる暇があるなら、英単語のひとつでも覚えたほうがマシだ。

戦車に乗っているつもりで、ガンガン行こう!

けど職場で、それをやると懲戒解雇になるから、要注意。

職場では効率良く仕事をする為に、みんなが気持ちよく仕事ができるように、「気を使うことも仕事」だ。

なんか、本当におかしいけど。

その大いなる二律背反が、きっと私のストレス。

目下、私を轢かれたカエルたらしめる。

タイジョウホウシンとか、マジだせえ。

20070211174046.jpg

5d2fe8a62e90f3ec05af831a3ea75171.jpg

世界の終わりに花束を [哲学するパラロス]

日常というものは、かくも残酷にできている。

約束された明日があることは、とても幸せなことなのだけれど、

そのゆとりが、現在という刹那をないがしろにしてしまう。

もし、今日、世界が終わるとして、私はどうするだろうか?

あとまわしにできる、未来を失ったとして、それでも同じように生きてられるだろうか?

また、胸をはって死ねるだろうか?

私の理想の死に方の理想は、建具屋カトーである。

img442.jpg

注 「建具屋カトーの決心」でググってください。

精一杯生きて、「ありがとう、いい人生だった」、とそう心から感謝の気持ちを抱き逝きたい。

けれど、今は、到底その域には届かない。

今日世界が終わるとしたら、死にたくないと、狼狽して、泣き喚くだろう。

思い残すことしかない、と。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

本当に、悲しいくらい平凡な日常に毒されている。

贅沢だけれど、最大の敵は、日常、そのものだ。

せめて。

今日が、世界の最後の日だと思い、大切に生きることができたなら。

誰かに「ありがとう」の花束を贈ってもらえるくらい。

誰かに心から「ありがとう」と花束を贈ることができるくらい。


水が合わねえ [哲学するパラロス]

相変わらず、痛い。

ごろごろごろごろしている。

目線は完全に小人目線。

眠ること以外にすることがない。

アトピーも帯状疱疹も全て、ストレスが原因。

私にとって、ふるさとを離れている、ということは、それだけでストレスなのだろう。

都会は、水が合わないのだ。

夢を見る。

5本立てくらい、延々と寝ているので、たくさん見る。



ねぎといっしょに、でっちゃんを拾いに苅田へゆき、りえぞうを拾って、FOXへ。

店に着くと、みんないる。

ひいちゃんは、キューを振り回し、だいごは、ひょうひょうとしてデルモみたい。

花台では、Hでちゃんと、いわOさんと、Eがしらさんが、粛々と玉を付く。

ほあほあは、大花火と格闘中。

どうしてそんなに楽しいことがあるの?

っていうくらい、みんな笑っている。

あ、夢だな、こりゃ。だって、いま、九州にいないもん。

楽しい時間には終わりが来る。

いや、楽しいからこそ、終わりを強く意識するのだ。

失ったものは、失っても良いものだ。そう思う。

だが、私の中にまだ残る大切なものの片鱗。

失ってはいない。ただ形を変えて心の奥に眠っているだけなのだ、と思い直す。

年に1.2回しか会えなくてもよい。

もう、2度と会うことがかなわなくったってよい。

それは、間違いなく、「大切なもの」という概念で、私の心に深化している。

人の大切な記憶は風化しない。

過去に囚われることを、よく思わない人も多い。

だが、私はそうは思わない。

そういったプラグマティズムな思考は、無味で、冷たく人間味がない。

過去を回想しているその瞬間だって「現在」だろう?

過去があり、現在がある。

原因があり、結果がある。

全てはつながっているのだ。

返したいたくさんの恩がある。

一人では人間は生きられない。

人間は、誰かの想いに答える為に、生まれてきたのだと信じる。

轢かれたカエルみたいになっている場合ではない。

水が合わないのなら、水に合わせるか、水を合わせるか、どちらかだ。

変えることのできるものは、変える努力を。

変えることのできないものは、そのまま受け入れる努力を。

はよ、治れ。

もういっそのこと、痛いの無視しようかな?

imagesCA2G2QX7.jpg

きりりんのパパ。 [哲学するパラロス]

全然、関係のないハナシなのだけれど、

私は、高坂桐乃のお父さんが大好きである。

一度口にしたことは必ず守る。

そして、なによりも家族を愛している。

寡黙だが、責任を取ることのできる男だ。

1tatiki.jpg

その背中を見て育った高坂京介もまた、男らしい。

有言実行で、一生懸命。言葉に責任を持つ。

言葉や行動に責任を持つことを考えると、おいそれと調子のよいことは口にできない。

私はおしゃべりで、調子がよいので、この点だけは上京したあと、本当に気をつけている。

だが、最近、そんな私から見ても、自分の行動に責任を取れない卑怯な大人が目に余る。

問題を起こし、他人に迷惑をかけていても、「お世話になりました、ありがとう、身を引きます。」の一言。

最高に最低にウソくさい感謝の言葉である。

幼稚園児のお遊戯だ。

誰に迷惑をかけ、またどうすれば、喜んでもらえるか考える脳みそがないのだ。

周囲に対する想いがないのだ。

全てがフェイクだ。

全くもってどこまでも限りなく自己中である。

若者のお手本になるべき大人が、である。

周りの人間のことなど微塵も考えてはいない。

いや、考えてはいるのだけれど、行動が伴わない。

周囲の人間の気持ちより、自分がかわいいのだろう。

よく死んで責任を取る。とか、辞職して責任を取る。などのハナシを耳にするけれど

ちゃんちゃらおかしい。自分のことしか考えていない。

家族は?残された者はどうなる。

周りの人間を大切にできず何の責任か?

男だったら、戦って死ねばいいのに。

そう短絡的に考えてしまう。

多分、勇気を持ち合わせていないのだと思う。

私も含め、勇気が日常から乖離している。

日常の怖さである。恒常性から逃れられない。

かくゆう自分もずいぶんといい加減に生きてきた。

過保護に育てられ、八方美人で調子がよい。

けれど、ふるさとにいた時分のそれは、思えば、周囲の人間の温かい庇護の結実である。

今でこそ理解できる。

他人の思いやり。

言葉を守った先人たち。かく有りたいと願う。

感謝の気持ちは、限りない。

この気持ちさえ忘れなければ、きっと大丈夫かな、とも思う。

images.jpg
前の10件 | 次の10件 哲学するパラロス ブログトップ

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。