厨②病だが、生きてゆく [哲学するパラロス]
妄想と現実。
どこで、区別をするのか?
今生きている、自分が現実だと感じている世界。
この世界が本当に現実だと誰が証明できようか?
単なる思い込みなのではないか?
我々が現実だと信じている世界は、モグラが地面の中で観ている夢の中の世界なのかも知れない。
何を持って実存とするか?
その定義があやふやである以上、妄想と現実を区別する術など存在しないのだ。
なのに、厨②病は、ぼっちになる。
理由は簡単。
その妄想が共感を得ない。
マジョリティとなりえないからだ。
脳内の無限とも錯覚される妄想に共感してくれる人間など、いない。
そうして、みんな妄想から覚める。
いや、生きてゆく為に覚めざるを得ないのだ。
けれど、私は人間はその時、無限の空想の世界を想像する感性を失うのだ。
厨②病の何が悪い?
人様に不快な思いを与えなければ良いだけだ。
思春期にみずみずしい感性を持ち合わせた人間の人生は豊かだ。
現実をただ生きる、ことなど誰にでもできる。
だが空想して、あらゆることに彩りを演出して生きてゆくことは、実は難しい。
換言すれば、人生を楽しむことは、豊かな想像力なしにはなかなか実現は難しいということ。
想像力は、創像力に繋がり、ものを考える習慣は困難に立ち向かうエネルギーに変わる。
厨②病でも生きてゆける。
ただ、気をつけなければいけないことは、人様に迷惑をかけてはいけない、ということ。
自分は特別な人間ではないけれど、自分の人生を楽しむことは自分にしかできない、
という当たり前のことを知ることが大切だ。
そこを、勘違いすると、逮捕されるよ。
理想も現実も夢も妄想も空想も何もかも、そう哲学さえ
人間が頭のなかで考え出すものの実存は証明できない。
けれど、生きている、という事象は存在するようだ。
ならば、事象そのものを、ダイレクトに楽しもう。
生きていれば、幸せになるチャンスはいくらだってある。全ては心の有り様だ。
自分という思惟の柵の中で、もがき苦しみ、あるがままの心で生きたいと願う。
それこそが、人間の最大の人間たる真価だと、私は信じたい。
だから、考え続ける。それこそが、在ることの定義だと今は感じるから。
どこで、区別をするのか?
今生きている、自分が現実だと感じている世界。
この世界が本当に現実だと誰が証明できようか?
単なる思い込みなのではないか?
我々が現実だと信じている世界は、モグラが地面の中で観ている夢の中の世界なのかも知れない。
何を持って実存とするか?
その定義があやふやである以上、妄想と現実を区別する術など存在しないのだ。
なのに、厨②病は、ぼっちになる。
理由は簡単。
その妄想が共感を得ない。
マジョリティとなりえないからだ。
脳内の無限とも錯覚される妄想に共感してくれる人間など、いない。
そうして、みんな妄想から覚める。
いや、生きてゆく為に覚めざるを得ないのだ。
けれど、私は人間はその時、無限の空想の世界を想像する感性を失うのだ。
厨②病の何が悪い?
人様に不快な思いを与えなければ良いだけだ。
思春期にみずみずしい感性を持ち合わせた人間の人生は豊かだ。
現実をただ生きる、ことなど誰にでもできる。
だが空想して、あらゆることに彩りを演出して生きてゆくことは、実は難しい。
換言すれば、人生を楽しむことは、豊かな想像力なしにはなかなか実現は難しいということ。
想像力は、創像力に繋がり、ものを考える習慣は困難に立ち向かうエネルギーに変わる。
厨②病でも生きてゆける。
ただ、気をつけなければいけないことは、人様に迷惑をかけてはいけない、ということ。
自分は特別な人間ではないけれど、自分の人生を楽しむことは自分にしかできない、
という当たり前のことを知ることが大切だ。
そこを、勘違いすると、逮捕されるよ。
理想も現実も夢も妄想も空想も何もかも、そう哲学さえ
人間が頭のなかで考え出すものの実存は証明できない。
けれど、生きている、という事象は存在するようだ。
ならば、事象そのものを、ダイレクトに楽しもう。
生きていれば、幸せになるチャンスはいくらだってある。全ては心の有り様だ。
自分という思惟の柵の中で、もがき苦しみ、あるがままの心で生きたいと願う。
それこそが、人間の最大の人間たる真価だと、私は信じたい。
だから、考え続ける。それこそが、在ることの定義だと今は感じるから。
2012-12-20 01:08
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