力無き者達よ、滅びるがよい

悪魔城ドラキュラのコピー。
鮮明な記憶がある。
箱の裏でうたってる。
「力無き者達よ、滅びるがよい」
このコピーがかっちょ良すぎて
30年以上、私の心の中にある。
悪魔城ドラキュラは
私の大好きなゲーム。
音楽も最高。
主人公のシモン氏の
戦う理由も、これまた
グッとくる。

いつの間にか
このコピーを側に置き
生きているうちに
ただ、生きていることについて
なんとなく生きていることについて
それを当たり前と感じていることに
ついて、後ろめたく
申し訳ない気持ちを
持つようになっていた。
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どのように生きるか、
は本当に難しい。
でも、何か、いろいろ
違う気がするんだ。
そういうことについて
とりとめもなく
考える時間が最近増えた。
何を考えていても
最後は、生きる死ぬ、
ことばかり考えている。
そういう年齢なのだろうか?
偏った私見で恐縮です。
ひとは、どこからきて
どこへゆくのか?
本当に教えて欲しい。

前のレジの高齢者が
レジに並んだあと、
お財布を探している。
後ろには長蛇の列。
みなのイライラが店内を包む。
私は、ひどいな、と思う。
高齢者に優しくない周囲にではない。
生きることに緊張感のない
高齢者に対してである。
高齢者だから、
周囲に迷惑をかけて当たり前だ、
と勘違いしているからだ。
みんな迷惑してる。
レジでお金を払うことは
わかっているのだから
財布は準備しておくべきだ。
そこを失念したのであれば、
一度レジを離れ
後ろに並び直していただきたい。
例えば
私の亡くなった祖母なら
必ずそうする。
「他人に迷惑をかけるな」
が口癖だった祖母は、
末期ガンでも、最後まで
家事を行い、
畳の上で目を閉じて
その生涯を全うした。

「他人への配慮」
これを備えずに社会生活を
送ることは傲慢だ。

たとえば
他人に迷惑をかけないように
気をつけた結果、
どうしてもかけてしまう
迷惑と、
高齢者だから
迷惑をかけて
当たり前だと思って
かける迷惑は重さが違う。

見えぬ明日。
思うように動かぬ心と手足。
抱き締めたまま蹲る夢。
大変だと、思う。
でも、だからこそ
「他人への配慮」が大切。

思いやりをお持ちの
高齢者は本当に敬意を覚える。
重ねていらっしゃる年輪に
尊い価値を感じる。
気品がある。

これは高齢者に限ったことではない。
「おれは、コミュ症だから」
「おれは、メールは
かえさないひとなんです。」
「まだ、若くて経験がないから」
「自分飲み会とかしないひとなんで」
「わたし、挨拶苦手なんですよね」
自分を可愛がって、
自分だけを可愛がって
「できること、
やらなければならないことを
やらない」
そんな人間ばかりだ。
面倒くさいから、手を抜く。
これは、卑劣ではないだろうか?
卑怯者の時代。

と、溢してはいるけれど 
自分は、他人のことちゃんと
考えているだろうか? 
できることを探しているだろうか?
やらなきゃいけないこと
やるべきことを疎かに
してはいないだろうか?
こんな風に偉そうなことばかり
言うには言うけれど
全く自分も実践できていない。
自分こそ、自分がよければよい
自分さえよければよい
という生き方がしみついていて
本当に最近は寝覚めも最悪だ。

いつも、いつも
自分に問いかける。
「ずるしてないか?」

「ずるばかりしてるわ
得意だから」

ずるっちょは、私の得意技だ。
小さなずるをして 
小さな得をする。
その積み重ねだった。
そのことを大きく後悔している。
できることなら、
人生をやり直したいまである。
世を拗ねて、ろくに勉強もせず
何もかも睥睨していた若い頃の私。
ゲーテのライネケのきつねのように
奸智に長けた生き方
頭を使った生き方だと、
思い違いをしていた。
オペラグラスで俯瞰しているような
借り物のような日々のなかで、
それは、ダメだ、と
この年になって思い切る。
そんなものはニセモノだ。
誠実に日々を重ねることにだけ
価値はある。
そんな気はしていたのだけどこれまで
身につまされることはなかった。

どんなに些末なことでも。
「必死に生きている様子」は
胸を打つのだ。

私の父は、88歳。
見えない目と動きにくい体。
思い通りにならない世界の中で
一人で生きている。
「自分でできることは自分でやる」
「楽なくらしに意味はない」
ささやかな、
でも、大切な
矜持。
自分の人生を自分として
全うしている。

社会に甘えず生きることを
「自立」というのだ。
「懸命に生きて、全うすること」
懸命に生きていれば、よい。
その生命の当たり前は、実に力強い。
その道程のなかで
誰かの力になれることもあるし
誰かの力をかりることもある。
「優しい社会」とは
「甘えの社会」ではなく
「みなができることはやる社会」だ。
そのみなができること、の軸は
「思いやり」であって欲しいと思う。

高齢者だから尊敬される訳じゃない。
病気だから甘えてよい訳じゃない。
若いからといって
自己中が許される訳じゃない。

品質が大切だ。

「力無き者」でも無条件で
守られる社会。
それは、自然界の理屈からすると
「イビツな世界」だ。

「どのように生きるか?」
その品質を常に
自問自答しながら、
割りと残り少なくなりつつある
余生をちゃんと生きてゆきたい。
やらなかった後悔は、
時間を重ねれば重ねるほど
大きくなる、という
残酷過ぎる現実。
同じ後悔するにしても
やらなかった後悔よりも、
やったあとの後悔を。

何を成したか、以外に
自分の足跡をはかれるものなど
存在しないのだから。





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ノストラダムスと終戦記念日

1999年には、

空から「恐怖の大王」が降ってくる。

だから、自分たちに未来はない。

そう思って生きていた。


「大予言ゲーム」という

ボードゲーム。

友人の家でオレンジジュースを飲みながら

4.5人で遊ぶ。

私はこのゲームが大嫌いだった。


そもそもこのボードゲームを

購入チョイスした友人の神経を

疑っていた。

陰惨な仕組みのゲーム。

ノストラダムスの大予言は

世紀末に向けてブームになっていて

みな「世紀末」を意識して

いたずらに不安を覚えていた。


みんなで、未来の事柄が描いてある

カードをめくる。

明るい未来を引き当てることを

競う、そういうボードゲームだった。

「戦争」

「飢餓」

「テロ」

「隕石衝突」

「伝染病蔓延」

たくさんの種類のカードのなかに

一枚、「平和」とかかれた

カードがまざっている。

鳩が光に向かってはばたいている。


それをひけばよい。

けれど

それを引くことは、ホントに

至難の技だった。


「終戦記念日」


コロナ。


伝染病が蔓延しつつある今日。

ああ、ノストラダムスの予言でも

細菌に滅ぼされる未来みたいなのが

あったなあ、と思う。

平穏な気持ちで

日々をおくれないという意味では

我々の現在は平和ではないのかも

知れない。

コロナは、我々人類の優れた

コミュニケーション能力の仕組みを

破壊する恐ろしい侵略者だ。


未知の細菌と戦争。


以下私見です。


この戦いに勝つためには、

「社会を守る」という意識が

何よりも大切だ、と思う。



「経済を守る 」ではない。

社会を守ることなしに、

経済を守ることはできない。


「社会を、守る」為には

「自分だけよくても、ダメ」という意識。

社会は繋がっているのだから。

日本は、借金もあるけど

貯金も、ベラボーにある。

全国民の貯蓄、企業の余剰利益、

これらを吐き出してうまく

運用して、3ヶ月近く

都市機能を封鎖すれば、

コロナに勝てるはずなのに。

自分だけ、お金貯めてても

天国まで持っていけるわけではないし

自分の企業だけ助かっても

となりのひとが飢え死にしていては

寝覚めも悪い。

自分の周囲だけ良くても、

結局は意味がないってこと。


最大多数の最大幸福。

これを目指すべき。


ノストラダムスは

どれもおこりうる

悲惨な未来を予言する。


当時は、小学生だった自分は

予言なんて余計なことしやがって

しかも

他人が嫌がること

不愉快に思うこと

ばかり予言しやがって!

とノストラダムスを罵倒したけれど、

でも。


生きている限り、様々な困難が

待ち受けている。

だから、備えること。

平和な日々を大切にな。


というダムスちゃんの

メッセージだったのでは、


と今では思う。


備えて悔いなく生きよう。

その為には

狭量な自分さえよければ、という

物事の捉え方を

社会全体を俯瞰できるように

変えてゆく

人類全体の進化が必要なのでは

ないだろうか?


そういう自分も、

まずは

自分がよくないと嫌なので

なんとも、

「思うだけ、言ってるだけ」

になってしまうのだけれど、

でも、日常から見える

未曾有の危機感に緊張を

感じている。

大変な危機が迫っている。

臆病なビビりな私は

それにどう備えれば

よいのか?ということと

現在を慈しむこと。

そればかり考えている。



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クリリンのことなの?

ふつふつと沸き起こる
激しい怒り!
わたしはこれを
正しいものだ、と思っていた。
何故なら、
私の知りうる偉い人たちは
みな、怒りの力を借りて
瞬転したり、
パースーサイヤ人になったり、
リングに舞い戻って
奇跡の逆転勝利をおさめたり
日向くんを吹っ飛ばして
シュートをたたきこんだりしてる。
でも、これらは
リーダーにのみ許されること。
世を知ると、
基本「怒り」はよくない、
ということらしいのだ。

アンガーマネジメント

怒りをコントロールすることが
日常の品質をあげる。
韜晦して、「そうじゃな」
「そうじゃよ」
と仙人のように生きればよい。
最近は、それを気をつけて
いるのだけど、
それに合わせて、 あらゆることに
情熱を失ってきている。
全てがどうでもよくなってきてる。
他人の物語を生きている、
そんな感覚に包まれる。
生きる気力を残したまま、
情熱を残すことは、困難だけれど
これは、少年ジャンプとともに
生きてきたいわゆる
ジャンプ世代の宿命かも知れない。
おこりんぼじじいには
なりたくないから。
怒りの感情を別のかたちに。
それを考える今日この頃だ。


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