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その声を忘れない。 [哲学するパラロス]

私は、他人のハナシは「当たり前にちゃんと聞いているつもり」だ。

パンツ履いてない人間に

「パンツを履け!」

と叱られたのであれば、

素直に「パンツを履く。」

そういうものだと思っていた。

誰が口にしようが、正しいことは正しい。

大切なのは、「誰が」言っているか?、ではなく

「何を」言っているか?だからだ。

そうでないなら、世の中が間違っている。

現在でもそう思っているよ。

けれど、ご存じのように、実際の世の中はそうではない。

大切なことは、「誰が言っているか?」なのだ。

だから、私の言葉もきっと他人には届かない。

社会、というものは、そういう寂寥感溢れる残念な世界なのだ。

それでも、私は、

「あなたの言ってくれたことは、覚えている。

きっと、死ぬまで忘れない。」

それがいろいろと「ともなわない私」の

たったひとつの誠意だ、と思うから。
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一日の価値。 [哲学するパラロス]

父は、「一日一日がたまらなくいとおしい」とこぼす。

健康で、何でもできる可能性がある。

そういう1日が、たまらなくいとおしい、というのだ。

そういわれて、恐ろしくなる。

仕事に追われて、光陰は屋の如し。

すざましい勢いで、月日が流れる。

とても、「いとおしい」と思う時間などない。

ただ、働いているだけで、何かをいとおしいとおもう暇(いとま)などない。

いずれ悔いることはわかっている。

けれど、日々の恒常性のなかで、自分を許している。

仕事が終わり帰宅すると、もう、何もする気がしない。

現在、なすべきことをして、そののち、やりたいことに邁進する。

その当たり前のことができないのだ。

誰のものでもない自分の人生がまるで「借り物」のよう。

私に現在必要なことは、向上心とか、そんな薄っぺらい大義名分ではなく

例えば、「月を見て、美しい、」と涙を流せるような、魂の潤いだ。

自分の感性というものを、よみがえらせなければならない。

日常に食い殺されぬよう、懸命に日々に感動を求める。

そういうふうに、生きねばならぬ。

恋愛死生観 [哲学するパラロス]

うざいタイトルだなー。
おもわれてるだろうから、簡単におはなしするのね、
バカなの?死ぬの?
失恋と死ぬことには、似ている点が多い。
その想い人と二度とあえない、そういう点では、同義だ。
死ぬことも、失恋も、同じ心の変遷をたどる。
否認、怒り、取引、抑うつ、そして、最後には、受け入れる。
受容である。
私は、この受容がとても大切だと思う。
どうにもならないことは、どうにもならない、という
当たり前のこと。
そして、そのことを、受け入れたのならは、過去を振り切り
未来へ歩を進めなければならない。
余命いくばくの人間が、それでも、それを厭わず儚いかもしれない
未来を慈しむように。
我々は、等しく未来に向かって生きている。
過ぎ去った過去にとらわれ、未来を見失ってはいけない。
受け入れたのなら、勇気を出して、まだ見ぬ未来へ帆を上げよう。
未来を見据え、生きようと思う限り、世の中そんなに悪くない。
死ぬことにせよ、失恋にせよ、
永遠の別れは、それを受け入れてこそ報われる。
そして、我々は、とてもひ弱な存在だとおもわれがちたけれど、
そういう苦難を乗り越えるちからをも、内包しているのだ。

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永訣の時 [哲学するパラロス]

ソクラテスたんは、一杯の紅茶を飲み、

「これで、よい」

と、その存在を霧散させた、という。

チョーかっこいい。嘘つけ!このハゲ!とおもうけれど、かっこいい。

私は、その諦観した終末の瞬間にあこがれ続けている。

そうして、自分もそんな風にありたい、と願っている。

いつかきっと、死ぬこと、そのことを受け止めることができるようになりたい、と。

いずれおとずれる永訣の時。死。

いくらお金を持っていようが、ビンボーだろうが、関係ない。

嘘にまみれた人生だろうが、誠実だろうが、関係ない。

喜びも悲しみも、何もかも、全て関係なく、死は平等に万人におとずれる。

死ぬことは、そこに存在しなくなること。

ただ、存在がなくなること。それだけである。

ここで考えることは、いなくなることと、いなかったことになること、は

やはりその根底にある意味がまったく違う、ということだ。

前者は、あたかかく、後者は孤独だ。

その人がいた。ということを、忘れないでいたいとおもうこと。

忘れたくないと思うことができること。

いなかったことにしないこと。

ここに、その人間の永遠がある。

よく、「過去にとらわれる人間は、未来を失う」、などを謳い文句にした、

似非ポジティブ思考な、啓発本を書店でみかけるけれど、チョー低能だと思う。

大切なことは、「過去の経験を生かし、未来に繋げる」ことである。

うまくいかなかったことや、不都合なことを全てデリートして上書きするという

思考は幼稚だし、それこそ動物的であり忌むべき。

人としての未来はない、と思う。

変わらないものは、そのままその経験を生かし、未来へ、

変えることにできるものは取り入れ未来へ。

先人の残したものを、やはり大切にしたいではないか。

そのためには、その人との永訣の時には、渾身の勇気を振り絞らなければならない。

死の恐怖に囚われ、大切な人との別れを曖昧にしてはならない。

そんな風に考えていてふと自分のことを考える。

そうしなければならなかった。

20年前の母親との別れの時を、思い出さないときはない。

もう、死ぬことが分かっていて、余命告知を私と父は受けていて

「その辛そうな姿をみることが辛い」

とか

「まだ、大丈夫、奇跡はおこる」

と甘ったれたことを口にして、涙をこぼすばかりだった。

そういった根拠のない奇跡を信じて、大学に戻った。

死に目にも会えなかった。

私は、あの時、勇気を出して、母親におとずれる運命と戦わなければならなかったはずだ。

悔やまない夜はない。

しっかり、母親の思いを聞き取らなければならなかった。

しっかり、話しておくべきだった。

なぜ、向き合えなかったのだろうか?

怖かった。

病室に母親を置き去りにすることを、向き合うことが辛かった。

自分の心が傷つくことが怖かったのだ。

大切なことと、ほんとうの気持ちに、向き合う勇気が持てなかったのだ。

だから、友達と麻雀ばかり打っていた。逃げていた。

何をやっていたんだ、という話である。

本当に悔やまない夜はない。

(麻雀は、生きる痛みをその場では軽くしてくれたけれど、

かわりに私は物事に向かい合う胆力を失った。)

以来、ずっと、大切なことや、本当の気持ちを見失い、

その場限りの安易な生き方を選ぶ「向かい合わない」癖がついてしまった。

まるで、そうすることが「賢い」とでも勘違いしているように。

いずれ私も召されるとして、その永訣の時に、

私はきっと、「向き合わなかったこと」を後悔する。

とてもではないが、ソクラテスのようにはいかない。

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*物語シリーズ。鬼物語のラストシーンが秀逸だった。

 あんな風に、しっかりと話をして、その人との永訣の時を迎えたい。

 いなくなる、ということをしっかりと見据えて、その時を迎えたい。










裏切られても裏切るな。 [哲学するパラロス]

「裏切られたくらいで、裏切るな。」

「約束を破られた位で、約束を破るな。」

「人間の人生なんて80年。何かを「成し得る」にはあまりにも短い。だけど、それを嘆かず

懸命に生きて生きて生きて、未来に夢を絆げ。次の世代に託せ。」

自分が、一度决めたことならば、完全に遂行すること。

周囲がどうあれ、それを理由に怠けて、本当に後ろめたくはないのか?

どうせ、人間死んじゃうんだから、と嘆くまえに、できることを全て頑張っているか?後ろめたくはないか?

次の世代に絆げることのできるほどの夢を持ち邁進できているか?

私は、東海大学の創設者である、先代松前重義総長を崇拝している。

はっきりいって、マインドコントロールされている、といっても過言ではない。

夢を希望を未来へ繋ぐ。

挑戦を続ける精神。

その被弾しながらも突き進む精神に惚れこんでいる。

昨夜先輩と電話でお話をしていて、先代総長について3時間ほど、熱く語り、元気になった。

睡眠不足だけど、眠くない。寝ていることがもったいないくらいに。

「よし、やってやろうと。」

めちゃめちゃ元気になった。

なので、

今日は、もう馬車馬のように一心不乱に挑戦してみた。

周囲が、もし仮にネットを観てサボっていようが、昼寝していようが、構わない。

そんなことを理由に、手を抜かない。

他人に歩調など合わせない。意識を濁らせない。そして、それでも他人対して謙虚でいる。

必死に頑張ればたどり着けるどこかがあって、

そうして、自分の無念すら託せる誰かに会えるかも知れない。

未来へ。

また、自分も誰かの無念を託されるかも知れない。

きっと未来へ。

そう思い立った初日。本日22時帰宅。

気を失ったように、そのまま眠ってしまい、現在何時ですか?

さて、晩御飯を食べよう、の午前1時。

不思議と眠くない。

こんな年齢不相応な生き方は、体に良くないのかも知れないけれど、全くストレスがなくてよい。

どうせまた、いつものナマケモノに戻ってしまうのだけれど、

それでも現在の自分が何か未来に意味を残せると信じるのなら、頑張れそうだ。

そもそも、まだ一日だけどね。

もしかしたら、生まれてきたことの意味を見つけることができるかも知れない。

だとしたら、もうそれだけでいいや。

意味が残れば、それでいい。






障害について [哲学するパラロス]

我が母校の中学は、社会福祉協力校だったようだ。

1学年、5クラス。

その内のひとつのクラスが、聾唖学級。

私の居たクラスだ。

30数名の男女の中に、3名だったかな、聾唖者がいた。

けれど、その時も、そして今も、彼らを障害者だ、などと感じたことはない。

それは、うちのクラス、全員が同じ感覚。

意識する必要もなかった、と思う。

自分でできることは、みんな自分でやっていたし。

ただ、「うまく話せないから、筆談なんやろーね」くらいの感覚。

面倒だとは感じない。

先輩たちも、先生も親も自然に区別なく過ごしていた。瑣末な差異だと言わんばかりに。

絵のうまいやつもいたし、運動が好きなやつもいた。

絵のうまい奴のことは、漫画家を目指していたので、俺の方がうまいとめちゃめちゃけなしていた。

実際、オレのほうが上手だった。

多分、今でもうまい。

そうして、昨日、週間少年マガジンの読み切りを読む。
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「聾の形」

なるほど、リズムもよく伏線回収もよい。

まだ、コンビニなど売れ残っているだろうから、是非読んでみて欲しい。

読み終わった感想。

これが今の若者の心の中なのかと、死にたくなる。

みんな、自分さえよければ、それでよいのだ。

そう、育てられているのだ。

最低最悪に不幸な世代。

今の時代の中学生に生まれ落ちたならば、自殺をしない自信はない。

オカルトとデジタル [哲学するパラロス]

関門海峡
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九州の入口だお!

門司港レトロに足を運べば、瓦そばも堪能できるお!
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論理的思考→デジタル

そうでないもの→オカルト


オカルトという言葉そのものは、神秘的で論理的ではないもの、という扱い。

実証できないものをひとくくりにして、蓋をしている感じ。

麻雀なんかでも、その見解はオカルトで根拠がないからいただけない、などど評される。

むむむむむ。

実は内心穏やかではない。論破しようかな?といつも思うのだけれど、

人それぞれ思惟はあるわけだから、それを侮辱する発言はよろしくない。

しかも、こちらもオカルトという言葉を使われるくらいだから、普遍的な真理は口にできない。

論争になると、たましいのたたかい、となる。それは、面倒なので万事、我慢する。

でも少し意地悪をしたい。



では、デジタル派の皆様に、訊ねたい。

あなたは、どのようにして、何のために生まれてきたのですか?

死ぬとどこに行くのですか?

そもそも、あなたは本当に存在しているのですか?

実存とは何ですか?魂とは何ですか?

地球の地軸がほんの少し現在の状況より傾いていたならば、人類は存在していない。

そんな偶然をどう論理的に解釈するのですか?

この世に論理的に説明のつくことなど、本当に僅かなものだけだ。

それなのに、論理的でないものを、それだけの理由で拒絶することは傲慢である。

それよりも、事象そのものを、魂で受け止めよう。

美しいものを、美しい。

おいしいものは、おいしい。

我々は、世界を生まれてきたことを、讃歌する為に生きている。

そのためには、魂で感じることのできる感性を大切にするべきだと思う。

謙虚さをもたない論理派は、自分に都合のよいものばかり身辺に置き、意にそぐわぬものを攻撃する。

だが、真の論理派は、自分の論調も学際のひとつなのだと、謙虚に受け止め

あらゆる事象を深く深化させて真理を探求する。

私は、後者をサイコーにかっちょよい!とおもうのだ。

死にたいのならば死ねばいいじゃなイカ? [哲学するパラロス]

よく、厭世的な気分になり、

「死にたい」などと、口にする人がいるのだけれど、

「うそつけこのハゲ!」

と頭をはたきたくなる。

ガセ前兆もほどほどにしろ!

本当に死にたい人間は、

「死にたい」などど口にする暇があるのならば、とっくに死んでる。

そもそも、本当に自殺してしまう人は何の前兆演出も発生しない。

うつ病。とくに双極性障害の場合、注意しなければならないのは、この点。

うつ病の人間は、とにかく現実を冷静に受け止めて分析できている。

だから世の中が本当は無価値で無意味であることを理解できてしまうのだ。

いずれおとずれる死。なら、もう今死んだほうが楽。

だから、「がんばれ」なんて言っても逆効果。

無意味であることが理解できていて生きているのだから、もう充分がんばっているのだ。

よけいなお世話だ。

うつ病に人たちの感覚は正しい。

現実は、冷たく凍えるほどにおそろしく無にむかっている。

その現実は揺るぎない。人はやがて無に帰す。

なのに、何に価値を持てと?

おっしゃるとおりだ。

であれば、何も敢えて、その現実と戦わなくてもいいんじゃないか?と私は思う。

戦っても勝てないし。

だから、

死とか、厭世的な気分は、人生の同行者として自分の傍らに置いておけばよい。

それだけが、全てではない、とぼんやりと希望を持ってみること。

5分後に死ぬといわれても、「ああ、そうかい」とええ声で答えて

目の前の「たいやき」をおいしいと味わうことのできる、そんな人になりたい。

まあ、無理だわな。

「死にたくない」ってわめき散らします。ええ。

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大人の流儀 [哲学するパラロス]

大人っていうのは、どういうことを指すの?

大人の癖に子供みたいな人、たくさんいるよね。

かくゆう、私も大人の自覚などは、ない。

変わらない自分のそばを、時間だけが、ただ通りすぎていっただけだ。

大人になりたいとは思わない。

けれど、あたたかい人間にはなりたいと願う。

本当の意味での優しさをもった人間。

けれど、それは、おそらく自然に身につくものだろう。

日々の振る舞いに品位が必要だ。

そんな折、一冊の本を見つける。

「大人の流儀3、別れる力」だ。
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伊集院 静。

流行りものは好きではないけれど、伊集院氏の小説は好きだ。

哀愁がある。悲哀がある。飾らない言葉がある。

もったいなくて、毎日、エッセイをひとつ反芻しながら、読む。

なるほど、大人っていうのも「本物」ならば悪くないな、そう感じる。

信じるものに救われる [哲学するパラロス]

信じる者は、救われる、とは言い得て妙。

それはそうだろう、信じているのだから、当然救われるはずだ。

だって信じているのだから。

だがこういう救われる者は、基本純真無垢な人間である。

「信じているから、救ってくれ、」なんて思考の輩は、その発想そのものが

信じていないので、救われない。

そもそも「信じる」という言葉そのものが、信じていないからこそ生まれる言葉。

つまり、信じている者はそもそも救われないのだ。

例えば、神様を信じています。

信じるという言葉も不要なくらい信じていれば、その人はもう幸せ。

救われているのだ。

だって、信じているのだから。

ちなみに、私は、この世もあの世も全て概念で、その全ての存在を信じていない。

在ること、と そして「ない」こと。

人が生まれ死ぬこと。

魂の定義。

大切なことは、全て理解不能なのに、何を信じろ、と?


私の通っていた幼稚園は、キリスト教。

私は、4歳の頃から、イエス・キリストに毎晩お祈りをしていた。

中学2年まで。

お祈りをしないと、何か大変なことが起こりそうで怖かった。

信じていた、というより、信じざるを得ない状況だった。

そうして、大人になり、「人間は、不安だから信じるのだ」、と知る。

そうして、何もない、のだと知る。

DNAに刻み込まれた「生きること」を全うするという、プログラム。

それが、想起させる「死ぬこと」への恐怖。

私は、なに一つ信じるに足る事象は、この世には存在しないと思う。

世の中は、曖昧で、とらえどころがない。

だが、「信じたい」と願うものならたくさんある。

多分、みんなそうだと思う。

信じたい、と思うものがあるだけで、ある意味それは、もう救われているのかも知れない。

何故なら、信じたいものは、きっとその人にとって大切なものだから。

信じたいくらい、大切なものだから。

きっと、信じるもの、大切なものに人間は救われるのだ。

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