信じるものに救われる [哲学するパラロス]

信じる者は、救われる、とは言い得て妙。

それはそうだろう、信じているのだから、当然救われるはずだ。

だって信じているのだから。

だがこういう救われる者は、基本純真無垢な人間である。

「信じているから、救ってくれ、」なんて思考の輩は、その発想そのものが

信じていないので、救われない。

そもそも「信じる」という言葉そのものが、信じていないからこそ生まれる言葉。

つまり、信じている者はそもそも救われないのだ。

例えば、神様を信じています。

信じるという言葉も不要なくらい信じていれば、その人はもう幸せ。

救われているのだ。

だって、信じているのだから。

ちなみに、私は、この世もあの世も全て概念で、その全ての存在を信じていない。

在ること、と そして「ない」こと。

人が生まれ死ぬこと。

魂の定義。

大切なことは、全て理解不能なのに、何を信じろ、と?


私の通っていた幼稚園は、キリスト教。

私は、4歳の頃から、イエス・キリストに毎晩お祈りをしていた。

中学2年まで。

お祈りをしないと、何か大変なことが起こりそうで怖かった。

信じていた、というより、信じざるを得ない状況だった。

そうして、大人になり、「人間は、不安だから信じるのだ」、と知る。

そうして、何もない、のだと知る。

DNAに刻み込まれた「生きること」を全うするという、プログラム。

それが、想起させる「死ぬこと」への恐怖。

私は、なに一つ信じるに足る事象は、この世には存在しないと思う。

世の中は、曖昧で、とらえどころがない。

だが、「信じたい」と願うものならたくさんある。

多分、みんなそうだと思う。

信じたい、と思うものがあるだけで、ある意味それは、もう救われているのかも知れない。

何故なら、信じたいものは、きっとその人にとって大切なものだから。

信じたいくらい、大切なものだから。

きっと、信じるもの、大切なものに人間は救われるのだ。

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