前の10件 | -

全ては、刹那的に

明日は、いいことあるかな?


頑張っていれば、いいことあるかな?


いつも、いつも、未来に想いを馳せる。


明るい未来を想像することは、とても、優しくて、幸せを予感させる。


時が重なり、


だが、明るい未来は、辛い現実にかわる。


物を手にする喜び。


ひとと出会う喜び。


できないことが、できるようになる、喜び。


それが、


物を失うかなしみ。


ひとと別れるかなしみ。


できることが、できなくなる、かなしみ。


これまでの、喜びが、全てかなしみにかわってゆく。


なるほど、よくできているな、と思う。


辻褄があうように、よくできている。


かなしみに包まれ破滅へ向かうことが、人生の真実であるならば、


われわれは、年を重ねれば重ねるほど、しあわせ、にはなれない。


結局のところ、しあわせ、幸福感 なんてものは、


「現在」にしか存在しない。


例えば、ふと見上げた夜空が、果てしなく美しい、と感じた。


とか、


ふと、思い出した過去の出来事に、ゆりかごのように包まれた、とか。


とても、些細なこと。


そこにしか、しあわせは、存在しない。


全ては、無に還る。


過去なんて、過去だし、未来なんて知ったことではない。


堅実に生きようが、賢く生きようが、どうせ最後は


からだも、こころもままならなくなって、


全てを置いて、無に還るのだ。


だったら、最初から、何も持たず、何も望まず


ただ、現在の事象を大切にして、


幸福、を感じる、そういう生き方を選ぶほうがよい。


富や名声を求め、損得勘定で生きるプラグマティズムでは、


たどりつくことのできない「幸福」を、


ささやかな日常から、感じ続ける生き方。


そのためには、ささやかであること、だ。と思う。


ささやかに生きよう、そう思いながら世の中を見つめると


これまでと違った美しさに出会うことができる。

nice!(0)  コメント(0) 

俺の上司がこんなに悪いわけがない。(日常)

10年前の記事を再録します。


お昼、ブチョリーナと、ブチョリーナの子分のくまと三人で、ラーメン屋Mへ向かった。


宇宙一美味しい 坦々麺を食べる為だ。


ウルトラヴィッツ2号は、亜高速で目的地へ向かう。


みんな、腹ペコだ。 あたりまえだろ?おひるなんだから!


テーブルに着くと、3人ともメニューには一瞥もくれず、注文する。


食べたいメニューはただひとつ!みんな坦々麺だ。


ふと、視線を落とすと、我々の食卓となるテーブルの中央に、一匹の蟻がいた。


蟻の癖に上品に静々と、テーブルの左から右へ、歩いている。  


なにを思ったのか、ブチョリーナがいきなり冷たい氷水(お冷)の入ったガラスのコップを手にして


蟻を閉じ込めた。 コップの底の凹型のへこみに閉じ込めたのだ。


「蟻のやつ、寒くて、きっとびっくりしてるぞ。」


ブチョリーナは、楽しそうに言い放つ。


蟻に意地悪をしているのだ。


「そろそろ、許してやろうかなあ」


許すもなにも、蟻は何も悪いことしてないのに。


私は、そう思ったけれど、突っ込むのは面倒くさいので、知らん振りをしていた。


ブチョリーナが、コップを上げると、そこには、黒い破片があるだけ。


よく、見ると、それは蟻の足だ。


ブチョリーナは、やってしまった。という表情をして、コップの底を見る。


そこには、変わり果てた蟻の姿があった。


楽しいお昼のひと時が、一瞬にして嫌な空気に包まれた。


ブチョリーナは、蟻に意地悪をしているだけのつもりだったのだろう。


だが、蟻にしてみれば、まさに命がけの出来事だったのだ。


自分にとっては、軽い気持ちでの所作が、相手の命を奪うこともあるのだ。


まあ、今回は相手といっても、昆虫だけれど・・。


私は改めて、相手の目線に立って考えることの大切さを感じた。


もし、ブチョリーナが蟻の気持ちを、少しでも考えることができたのなら、


このような悲劇は起きなかっただろう。


ブチョリーナは、この惨劇の後、何事もなかったように、


ティッシュで蟻さんを包んでテーブルの脇に放置して、知らん顔をした。


私は、ブチョリーナの所作をしこたま非難したが、当然のようにガン無視である。  


ブチョリーナはやがて、運ばれてきた坦々麺に本当に何事もなかったように箸をつけた。  


そう、何事もなかったのである。彼の中では。  


私は、ブチョリーナの悪党っぷりに恐怖した。


もはや、アンタッチャブルなんてイカした存在ではない。


完全なワル。ダークな存在である。  

ブチョリーナは私ごときが、なんとかできる存在ではない。  


きっと第六天魔王の生まれ変わりの子孫か何かだと思う。 2011101919390000.jpg

nice!(0)  コメント(0) 

まつりのあと [日常]

高校生のころ。

授業が終わり、立ちこぎで家にかえる。
ご飯を食べて、速攻でゼルダ。
テスト前になると友人から貸してもらえる
ディスクシステムの織り成す世界は、
まさに、夢のようだった。
限られた時間での戦いは、
臨場感満点だ。
戦いの成果を明日、学校で
みんなに話したい。
ネットもケータイもない時代。
夢のような戦いのあと
そのまま夢の国へ。
某外資系の保険会社の代理店研修生だった頃。
仕事が17時に終わる。
高速バスを降りて玉突き屋さんへ。
5先のナインボール。
限られた時間での貴重なビリヤードは
重さが違う。
明日も早いから、一時間しか突けない。
仲間の弾けるような笑顔のなか
見つめる手玉は、
優しく自分を見つめてくれている
そんな気持ちにもなれる。
夕方20時に、千草麻雀教室へ。
半荘一回、打てるか、打てないか。
観戦でもいい。
そのたった一回の半荘を何度も反芻する。
考えて考えて考え疲れて眠りにつく。
明日の麻雀がまた楽しみになる。
見えない階段を着実に、のぼっている気持ち。
仲間の真剣な眼差しに、
奮い立つ情熱を感じる。
仕事が終わったあとは、
好きなことをほんのすこしやりたい。
好きなことだから、ほんのすこしでいいのに。

自分にとっての幸せなこととは、

実は、ほんのささやかなことばかりなのに、

現在は、何ひとつ叶わない。

大切なものは、いつも

失ってから気づく。

ずっとその、繰り返しだ。

勤め人になってから長い間

緩慢に生きているから、

緩慢に生きてきてしまったから

もう何をどうすればよいのか、

わからない。

同じことの繰り返しの日常しか

持てないから、時間がたつことが

速いったらありゃしない。

自身の人生を忸怩たる思いで

振り返ることが多くなってる。


祭りのあとの、寂寥感。

それに重ねて

これまで経験したことのない

身に詰まる切なさに包まれる。


そうか、老いる、とは

そういうことなのか。


そのさきの先のささやかな楽しみすらない、

先の楽しみがない、

 

きっと、それは、

果てのない絶望への運命。


嫌だわ。

nice!(0)  コメント(0) 

ポケッツのなかの戦争

「閃光のハサウェイ」が公開されるから、

との理由で、0080が配信されていた。

アムロ専用機のガンダム、

という謳い文句に痺れた当時。


ホントに久しぶりに観た。

上京するときに友人が餞別で託してくれた

目が覚めるくらい美しい

メタリックブルーのケンプファー。

現在も私のそばにいる。


酒を引っかけて、戦場に赴く

おっさんの無頼な様子に

当時は憧れたものだ。

かっこよくないかっこよさ。

 

やはり、良い作品だ。

終盤、バーニィのもとへ

「戦う必要がなくなったことを伝えるために」

必死で走る少年の背中をみて

現在なら、スマホがあるから、

バーニィは死なずに済むのに、などと

みもふたもないことをつい考えてしまう。


「そうか、この頃、スマホないんだ。」

ポケットベルの時代だわ。

と、改めて驚く。

伝えたいのに、伝えられない切なさ。

そういうことが、少し気になり

思わずもう一度最初から、観る。

すると登場人物が、みな

「伝えようとしている」ことに気づく。

そしてこの作品もさまざまなことを

伝えようとしていることに気づく。

音で、映像で、「伝えようと」している。

皮肉たっぷりな物語に

妙にリアリティーを感じる。


やはり、モノを作る仕事は

どこまでも情念の世界だなあ、と思う。



閃光のハサウェイが楽しみだ。

Screenshot_20210315-195432.png
nice!(0)  コメント(0) 

やってらんない

町に商売にでて
遅くなったので
泊まって帰ることにした。
天気の良い朝。
帰宅すると、
家族はミナゴロシにされていて
息のある妹は鬼になっちゃってたんすけど。

置き換えてみて、
ここから、こんな地獄の底から
鬼になった妹とかを
なんとかしようなんて思えないし
思わないだろう、と思った。
リアリティがない、と。
「鬼滅の刃」をはじめて読んだとき
最初はそう思った。

なんともならない絶望のなかでも
何にもしないよりも、
なんとかしようと頑張るほうがよい。
もしかしたら
ひょっとしたら、
光に届くかも知れない。
そういう話だった。

「それでも、
なにもしないより、よい」
そう思えることは、若さの特権。
「エンディングが想像つくから
得することしかやらない」
というのは、老いている証拠だ。

鬼滅の刃に共感できなかった、自分は
いつしか、少年ではなくなり
少年ジャンプを読む資格を失っていたようだ。

少年漫画の使命は、少年に
「困難に立ち向かう勇気を与えること」
これに尽きると思う。
いつも忘れてしまうけれど
「勇気」
それこそが
どんなときも失ったはいけない
大切な矜持なのだ。







nice!(0)  コメント(0) 

臆病なはりねずみ

定食屋さんの前。
おまわりさんが事情の聴取をしている。
水をかけられた男性が
恨み節を重ねている。
マスクをしていなかった男性が
注意を受け、水をかけられた、とのこと。
悲しい、いや哀しい景色だ。
見苦しくて、目を伏せたくなる。
理由はどうあれ、
他人に水をかけるなど、
動物園での光景か、と。

コロナというよくわからない脅威に
怯えて、なんだかよくわからなくなっている。
正しい真摯で紳士な対応など
持ち合わせるゆとりは皆無。
怖くて、不安で落ち着かなくて
他人を過剰に攻撃する。

覚悟を決めよう。
雨の日や雪の日に
その空模様を呪ったところで
何の解決にもならない。 
傘をさすなり、悪天候に備えることより
他にできることなどない。
コロナという厄災への
怒りややるせなさを呪っても
どうにもならないことなのだ。

自分の身を自分で守る。
それをそのことを
他人に求めても哀しくなるばかり。

コロナに言い訳せず、
できることをやろう。

出かけない、ではなく
どのようにでかけるか?

会合は控える、ではなく
どのように会合を行うのか?

質を問うことで、
人は品格を取り戻すことができる。

怯えて、守りにはいると
どんどん臆病になり、
何も解決することができなくなる。

コロナ

思うことは、みなある。
言いたいことは、山ほどある。
不平や不満、抱えきれないほど。
でも、呪っても風景は変わらない。

コロナに打ち勝つということは、
社会が人間らしい柔らかさを
失わないことではないだろうか?

他人を傷つけると自分も傷つき
いずれ他人から傷つけられる。
身を守るための全身のとげは
自分もふくめてすべてを傷つける。
それは、コロナのせいではなく
ひとの弱さのせいだ。

マスクをしてなくて、水をかけられたひと。
おまわりさん。
店内にいたひと。
お店のひと。
そして、水をかけたひと。
みな、哀しい気持ちになる。

ひとの弱さが、露呈してゆく。

nice!(0)  コメント(0) 

ぼくのサバンナチャンス

果てしない昔。
心酔とは、まさにこのこと。

サバンナチャンスに夢を見る。
目を閉じればあのメロディー。
仲間はみな、魅力されていた。
ケータイの待ち受けはチエナナ。
高確率の状態ハズレ目をひくこと。
それがアシストタイム
サバンナチャンスへの突入条件。
高確率状態にはビックボーナスを
引かない限り、移行しない。
愛読していたパチスロ必勝ガイドの
記事でそのことを知り、
私はビックボーナスをほどよく
引けている台を狙い打っていた。
その日は、ノーサバンナ。
ノーサバンナほど
惨めなことはない。
三万やられて居酒屋に流れ着く。
勝ち組の二人との一献。
「おまえはなあ、チョロチョロ
動き過ぎじゃ。」
とマサカッツ。
「おう、そうや、男やったら
台と向かい合って勝負せんかい!」
とタクボン。
タクボンは、どんなときも
台移動はしない。
台と、生きるか死ぬかの
勝負をしているからだ。
確かに二人のいうことにも
一理ある。
「獣王」は、最低設定の1でも
ビック4回に1回はアシストタイムに
突入するとのことだし、
むやみに台移動をするよりも
一台を打ちきったほうがよいのでは?
サバンナチャンスが引きたい。
とにもかくにもサバンナチャンスだ。
私は、酔いもあり、ふたりに 、
明日は何があっても1台勝負。
絶対にイモは引かないと、誓う。
実は、勝算はあった。
パーラーアサッヒの
カドから2台目。
今週はずっと悪くない。
明日だけ悪い、ということは
そうそうあるまい。
翌日。
並び順入場なので
早い時間からアサッヒへ。
開店のファンファーレとともに
店に飛び込み左のコーナを駆け抜け
「獣王」のシマへ。
もみくちゃにされながら
タバコのライターを台に投げ込む。
10万円ある。
それらを全て1000円札に両替。
一発当てればそれでOK。
台との真剣勝負だ。
開店のアナウンスが響き
みなが高確移行の為
台を覗き込んでいる中
高設定を信じて
1000円札を夢中でサンドに
ほおりこむ。
負けたときのことなど、
1ミクロンも考えていない。
若さとは、そういうものなのかも
知れない。
Screenshot_20201020-130501.png
nice!(0)  コメント(0) 

力無き者達よ、滅びるがよい

悪魔城ドラキュラのコピー。
鮮明な記憶がある。
箱の裏でうたってる。
「力無き者達よ、滅びるがよい」
このコピーがかっちょ良すぎて
30年以上、私の心の中にある。
悪魔城ドラキュラは
私の大好きなゲーム。
音楽も最高。
主人公のシモン氏の
戦う理由も、これまた
グッとくる。

いつの間にか
このコピーを側に置き
生きているうちに
ただ、生きていることについて
なんとなく生きていることについて
それを当たり前と感じていることに
ついて、後ろめたく
申し訳ない気持ちを
持つようになっていた。
Screenshot_20200820-115131.png

どのように生きるか、
は本当に難しい。
でも、何か、いろいろ
違う気がするんだ。
そういうことについて
とりとめもなく
考える時間が最近増えた。
何を考えていても
最後は、生きる死ぬ、
ことばかり考えている。
そういう年齢なのだろうか?
偏った私見で恐縮です。
ひとは、どこからきて
どこへゆくのか?
本当に教えて欲しい。

前のレジの高齢者が
レジに並んだあと、
お財布を探している。
後ろには長蛇の列。
みなのイライラが店内を包む。
私は、ひどいな、と思う。
高齢者に優しくない周囲にではない。
生きることに緊張感のない
高齢者に対してである。
高齢者だから、
周囲に迷惑をかけて当たり前だ、
と勘違いしているからだ。
みんな迷惑してる。
レジでお金を払うことは
わかっているのだから
財布は準備しておくべきだ。
そこを失念したのであれば、
一度レジを離れ
後ろに並び直していただきたい。
例えば
私の亡くなった祖母なら
必ずそうする。
「他人に迷惑をかけるな」
が口癖だった祖母は、
末期ガンでも、最後まで
家事を行い、
畳の上で目を閉じて
その生涯を全うした。

「他人への配慮」
これを備えずに社会生活を
送ることは傲慢だ。

たとえば
他人に迷惑をかけないように
気をつけた結果、
どうしてもかけてしまう
迷惑と、
高齢者だから
迷惑をかけて
当たり前だと思って
かける迷惑は重さが違う。

見えぬ明日。
思うように動かぬ心と手足。
抱き締めたまま蹲る夢。
大変だと、思う。
でも、だからこそ
「他人への配慮」が大切。

思いやりをお持ちの
高齢者は本当に敬意を覚える。
重ねていらっしゃる年輪に
尊い価値を感じる。
気品がある。

これは高齢者に限ったことではない。
「おれは、コミュ症だから」
「おれは、メールは
かえさないひとなんです。」
「まだ、若くて経験がないから」
「自分飲み会とかしないひとなんで」
「わたし、挨拶苦手なんですよね」
自分を可愛がって、
自分だけを可愛がって
「できること、
やらなければならないことを
やらない」
そんな人間ばかりだ。
面倒くさいから、手を抜く。
これは、卑劣ではないだろうか?
卑怯者の時代。

と、溢してはいるけれど 
自分は、他人のことちゃんと
考えているだろうか? 
できることを探しているだろうか?
やらなきゃいけないこと
やるべきことを疎かに
してはいないだろうか?
こんな風に偉そうなことばかり
言うには言うけれど
全く自分も実践できていない。
自分こそ、自分がよければよい
自分さえよければよい
という生き方がしみついていて
本当に最近は寝覚めも最悪だ。

いつも、いつも
自分に問いかける。
「ずるしてないか?」

「ずるばかりしてるわ
得意だから」

ずるっちょは、私の得意技だ。
小さなずるをして 
小さな得をする。
その積み重ねだった。
そのことを大きく後悔している。
できることなら、
人生をやり直したいまである。
世を拗ねて、ろくに勉強もせず
何もかも睥睨していた若い頃の私。
ゲーテのライネケのきつねのように
奸智に長けた生き方
頭を使った生き方だと、
思い違いをしていた。
オペラグラスで俯瞰しているような
借り物のような日々のなかで、
それは、ダメだ、と
この年になって思い切る。
そんなものはニセモノだ。
誠実に日々を重ねることにだけ
価値はある。
そんな気はしていたのだけどこれまで
身につまされることはなかった。

どんなに些末なことでも。
「必死に生きている様子」は
胸を打つのだ。

私の父は、88歳。
見えない目と動きにくい体。
思い通りにならない世界の中で
一人で生きている。
「自分でできることは自分でやる」
「楽なくらしに意味はない」
ささやかな、
でも、大切な
矜持。
自分の人生を自分として
全うしている。

社会に甘えず生きることを
「自立」というのだ。
「懸命に生きて、全うすること」
懸命に生きていれば、よい。
その生命の当たり前は、実に力強い。
その道程のなかで
誰かの力になれることもあるし
誰かの力をかりることもある。
「優しい社会」とは
「甘えの社会」ではなく
「みなができることはやる社会」だ。
そのみなができること、の軸は
「思いやり」であって欲しいと思う。

高齢者だから尊敬される訳じゃない。
病気だから甘えてよい訳じゃない。
若いからといって
自己中が許される訳じゃない。

品質が大切だ。

「力無き者」でも無条件で
守られる社会。
それは、自然界の理屈からすると
「イビツな世界」だ。

「どのように生きるか?」
その品質を常に
自問自答しながら、
割りと残り少なくなりつつある
余生をちゃんと生きてゆきたい。
やらなかった後悔は、
時間を重ねれば重ねるほど
大きくなる、という
残酷過ぎる現実。
同じ後悔するにしても
やらなかった後悔よりも、
やったあとの後悔を。

何を成したか、以外に
自分の足跡をはかれるものなど
存在しないのだから。





nice!(0)  コメント(0) 

ノストラダムスと終戦記念日

1999年には、

空から「恐怖の大王」が降ってくる。

だから、自分たちに未来はない。

そう思って生きていた。


「大予言ゲーム」という

ボードゲーム。

友人の家でオレンジジュースを飲みながら

4.5人で遊ぶ。

私はこのゲームが大嫌いだった。


そもそもこのボードゲームを

購入チョイスした友人の神経を

疑っていた。

陰惨な仕組みのゲーム。

ノストラダムスの大予言は

世紀末に向けてブームになっていて

みな「世紀末」を意識して

いたずらに不安を覚えていた。


みんなで、未来の事柄が描いてある

カードをめくる。

明るい未来を引き当てることを

競う、そういうボードゲームだった。

「戦争」

「飢餓」

「テロ」

「隕石衝突」

「伝染病蔓延」

たくさんの種類のカードのなかに

一枚、「平和」とかかれた

カードがまざっている。

鳩が光に向かってはばたいている。


それをひけばよい。

けれど

それを引くことは、ホントに

至難の技だった。


「終戦記念日」


コロナ。


伝染病が蔓延しつつある今日。

ああ、ノストラダムスの予言でも

細菌に滅ぼされる未来みたいなのが

あったなあ、と思う。

平穏な気持ちで

日々をおくれないという意味では

我々の現在は平和ではないのかも

知れない。

コロナは、我々人類の優れた

コミュニケーション能力の仕組みを

破壊する恐ろしい侵略者だ。


未知の細菌と戦争。


以下私見です。


この戦いに勝つためには、

「社会を守る」という意識が

何よりも大切だ、と思う。



「経済を守る 」ではない。

社会を守ることなしに、

経済を守ることはできない。


「社会を、守る」為には

「自分だけよくても、ダメ」という意識。

社会は繋がっているのだから。

日本は、借金もあるけど

貯金も、ベラボーにある。

全国民の貯蓄、企業の余剰利益、

これらを吐き出してうまく

運用して、3ヶ月近く

都市機能を封鎖すれば、

コロナに勝てるはずなのに。

自分だけ、お金貯めてても

天国まで持っていけるわけではないし

自分の企業だけ助かっても

となりのひとが飢え死にしていては

寝覚めも悪い。

自分の周囲だけ良くても、

結局は意味がないってこと。


最大多数の最大幸福。

これを目指すべき。


ノストラダムスは

どれもおこりうる

悲惨な未来を予言する。


当時は、小学生だった自分は

予言なんて余計なことしやがって

しかも

他人が嫌がること

不愉快に思うこと

ばかり予言しやがって!

とノストラダムスを罵倒したけれど、

でも。


生きている限り、様々な困難が

待ち受けている。

だから、備えること。

平和な日々を大切にな。


というダムスちゃんの

メッセージだったのでは、


と今では思う。


備えて悔いなく生きよう。

その為には

狭量な自分さえよければ、という

物事の捉え方を

社会全体を俯瞰できるように

変えてゆく

人類全体の進化が必要なのでは

ないだろうか?


そういう自分も、

まずは

自分がよくないと嫌なので

なんとも、

「思うだけ、言ってるだけ」

になってしまうのだけれど、

でも、日常から見える

未曾有の危機感に緊張を

感じている。

大変な危機が迫っている。

臆病なビビりな私は

それにどう備えれば

よいのか?ということと

現在を慈しむこと。

そればかり考えている。



nice!(0)  コメント(0) 

クリリンのことなの?

ふつふつと沸き起こる
激しい怒り!
わたしはこれを
正しいものだ、と思っていた。
何故なら、
私の知りうる偉い人たちは
みな、怒りの力を借りて
瞬転したり、
パースーサイヤ人になったり、
リングに舞い戻って
奇跡の逆転勝利をおさめたり
日向くんを吹っ飛ばして
シュートをたたきこんだりしてる。
でも、これらは
リーダーにのみ許されること。
世を知ると、
基本「怒り」はよくない、
ということらしいのだ。

アンガーマネジメント

怒りをコントロールすることが
日常の品質をあげる。
韜晦して、「そうじゃな」
「そうじゃよ」
と仙人のように生きればよい。
最近は、それを気をつけて
いるのだけど、
それに合わせて、 あらゆることに
情熱を失ってきている。
全てがどうでもよくなってきてる。
他人の物語を生きている、
そんな感覚に包まれる。
生きる気力を残したまま、
情熱を残すことは、困難だけれど
これは、少年ジャンプとともに
生きてきたいわゆる
ジャンプ世代の宿命かも知れない。
おこりんぼじじいには
なりたくないから。
怒りの感情を別のかたちに。
それを考える今日この頃だ。


nice!(0)  コメント(0) 
前の10件 | -

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。