気を使うってどうゆうこと? [哲学するパラロス]

よく考えてみました。

まず、自分という概念について。

自分という概念は、他人という概念があって存在しうる。

まあ、それはそうですね。ええ。

ということはですよ?

他人がいなければ、自分を定義することも難しい、ということになる。

他人がいないと自我という概念を保つことも難しい、ということ。

ちょっと極端な話になるけれど。
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気を使う、という思考の根底には、

「相手に嫌われたくない、よく思われたい。」というもくろみがある、と私は思う。

これは、相手を思いやっているわけではない。

むしろ、真逆。

ツルセコハゲ丸である。

私は、よく「気を使う」と責められるけれど、

そんなことはれんれんない、と思う。

ただ、やりたいようにやっているだけだ。

嫌われてもいいや。自分は自分だし。

と思っているし、ダメなものは取り繕ったところでダメだもの。

では、「気を使わない」でどうならよいの?という話になる。

それは、多分、見返りを求めないこと。

見返りなんて、考えもしないこと。

気を使う、ことと、思いやり は違うと思う。

大切な相手には、しっかりと準備をして、

別に嫌われても構わないから、気を使わず「思っていること」を、本気で伝える。

ガチの人間関係は、格闘だ。できる限り偽らぬよう腹をくくりつけて挑まねば大怪我をする。

その結果失うものなら、最初から必要のなかったもの、縁がなかったのだ、ということになる。

本気で相手のことを考えている」その言葉が、それでも伝わらない相手ならば、合わないのだ。

合わせる必要等ない。良い悪いの問題ではない。

気を使って取り繕う必要など皆無だ。エネルギーの無駄だ。

そんなことやってる暇があるなら、英単語のひとつでも覚えたほうがマシだ。

戦車に乗っているつもりで、ガンガン行こう!

けど職場で、それをやると懲戒解雇になるから、要注意。

職場では効率良く仕事をする為に、みんなが気持ちよく仕事ができるように、「気を使うことも仕事」だ。

なんか、本当におかしいけど。

その大いなる二律背反が、きっと私のストレス。

目下、私を轢かれたカエルたらしめる。

タイジョウホウシンとか、マジだせえ。

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