存在について「ある、ということ」 [哲学するパラロス]
哲学だなんて、そんなに難しいことじゃないんだよ。
物事の理を自分の頭で考えたならば、それはもう哲学だ。
現実にある、ということ。
存在する、ということの定義はまっこと難しい。
例えば今、目の前に、ぶチョリーナにもらったおやつの柿があるのだけれど、
これが「実在する」ということを立証するためには
「存在する」とうことがどうゆうことなのか、まず定義されていなければならない。
こういった問答を小学校5年の頃からずーーーっと繰り返している。
そして、、私はひとつの仮説に辿りついた。
例えこの柿に触れることができなくても、「存在する」ことにしよう。
そう、私の意識のなかで、頭の中に「存在していれば」「存在する」のだ。
私が、認識できること、これが、私の定義するところの「存在する」である。
要するに、概念として「あれば」良いわけだ。
だから、私の頭の中で想像して創像したものも存在するのだ。
そういう理屈なので、過去の大切な出来事や思い出も存在する。
亡くなった人も存在する。
何一つ失うものなどない。
ただ、触れることができないだけだ。
そういう風に考えてゆくと、
私という概念が、概念として存在を認めるかぎり事象は消失しない、ということになる。
信じれば、事象は「存在すること」にできちゃうのだ。
信じるモノは救われる。
そう、かの三大宗教の一つ、キリスト教の信者だって、神様を信じて「存在する」と信じているから
救われるのだ。
誰も無限の創像力と無限の認識能力を持ち合わせている。
くだらない常識くくりによる「実存と」いう「ある」に惑わされず、自分の概念を大切に生きてゆければ、
人生はそんなに寂しいものではないと思う。
物事の理を自分の頭で考えたならば、それはもう哲学だ。
現実にある、ということ。
存在する、ということの定義はまっこと難しい。
例えば今、目の前に、ぶチョリーナにもらったおやつの柿があるのだけれど、
これが「実在する」ということを立証するためには
「存在する」とうことがどうゆうことなのか、まず定義されていなければならない。
こういった問答を小学校5年の頃からずーーーっと繰り返している。
そして、、私はひとつの仮説に辿りついた。
例えこの柿に触れることができなくても、「存在する」ことにしよう。
そう、私の意識のなかで、頭の中に「存在していれば」「存在する」のだ。
私が、認識できること、これが、私の定義するところの「存在する」である。
要するに、概念として「あれば」良いわけだ。
だから、私の頭の中で想像して創像したものも存在するのだ。
そういう理屈なので、過去の大切な出来事や思い出も存在する。
亡くなった人も存在する。
何一つ失うものなどない。
ただ、触れることができないだけだ。
そういう風に考えてゆくと、
私という概念が、概念として存在を認めるかぎり事象は消失しない、ということになる。
信じれば、事象は「存在すること」にできちゃうのだ。
信じるモノは救われる。
そう、かの三大宗教の一つ、キリスト教の信者だって、神様を信じて「存在する」と信じているから
救われるのだ。
誰も無限の創像力と無限の認識能力を持ち合わせている。
くだらない常識くくりによる「実存と」いう「ある」に惑わされず、自分の概念を大切に生きてゆければ、
人生はそんなに寂しいものではないと思う。
2012-11-24 03:56
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