あしたのジョー

少年の日。

矢吹丈に憧れていた。

強くて、かっこいい、と。

けれど、この年齢になって

もう一度、しっかりと観てみると、

全然そんなことはなかったのだな、と気づく。

登場人物は刹那的で、

主人公の矢吹も「あした」なんて

ワードは、脳内には存在しない。

現在をどう生きるか?

それのみに終始している。

作品全体に漂う得も知れぬ「哀愁」。

それは、この刹那的な主人公の生き方にある、と感じた。

保留しない生き方。

保険を掛けない生き方。

打算のない生き方。

そのありのままの姿で生きる悲惨な人間の真実が

言いようのない哀しみを生む。

「あしたのジョー」を観ていて

賢くて、「あした」に備えて生きているはずの

我々が、「あしたに備えているがため」に

現在をおろそかにしているのではないか?

と、感じざるを得ない。

どうしようもなく、そう感じるのだ。

今日死ぬかも知れないのに、

明日のことなんか、考えてどうするんだ?

戦時中はそうだった、という。

だから、みな、その時を噛みしめて

おろそかにせず生きてきたのだと。

「あした」は「ない」のかもしれない。

「あした」が「ある」と甘えることで

「いま」の価値を希釈しているのかもしれない。

未来に甘えず、想いをため込まず

「いま」に叩き込む生き方こそ、大切なのではないか?と。

何も持たない、主人公矢吹丈は、

本人にしかわからない充足感を持って

真っ白な灰になる。

そこには、何の説明も言い訳もない。

生きる、というのは、

そういうことなのかも知れない。

自己実現の欲求。

それは、保留の誤魔化した人生観では

きっとたどり着けないのだ、と思うのだ。

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さくら

昔 住んでいた家。

桜の木。

両親が結婚をした記念に植えた桜。

母親が、永遠にまぶたを閉じて、

われわれもまっくらな気持ちになって

それでも、咲き誇る桜の木。

嘘くさくて、幻想的で、

何かをごまかそうとしている様子。

以来、27年間、桜が大嫌いだった。

変わらないその姿に静かな怒りを覚えていた。

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毎年、桜の季節には、仕事でたくさんの高校を巡る。

最近、なぜかこれまでと、違う想いを抱くようになった。

その理由をはたと考えて、そういうことか?と納得する。

桜のしたには、笑顔がある。

希望がある。

その美しさを誰かと共有したい、という想いがある。

そして、その季節には大きな決意がある。

心のありようによっては、絶望しかない人生に、

そういう未来をみせてくれる。

はじめて、舞い散る桜が

悲惨である人間の人生そのものを

励ましているのではないか?

そういう風に感じた。

嘘くさかったり、変に幻想的だったり、

それでも、よい、と思う。

純粋に美しいもの、よりも

はるかに現実味があって、ホンモノな感じがする。

おもえば、5月で母親の27回忌だ。

27年経って、はじめて桜の花に胸襟を開くことができた、

そんな気がした春の日だった。

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かんたんなんだよ、こんなの!

できるできないの秘密

という本に出てくる「デキッコナイス」という外国人が大嫌いだった。
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なんでもかんでも、できっこない、ってこのくそ野郎!と思っていた。

それから20年。

かんたんなんだよ!こんなの!

と、おっしゃる団長に出会う。
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この言葉は、魔法のようにポジティブだ。

かんたんじゃなくても、かんたんになっちゃいそうな魔法。

きっと、よのなかって実はシンプルで、

あんまり考えてはいけないのかも。

そう考えると、とても気持ちが楽になる。

むつかしく考え出すと、結局すべてが嫌になって

全く、やる気がなくなってしまう。

気軽にやってみる習慣。

これが大切なのだ、と。

デキッコナイスでは、

いつまでも、なにもできっこない、に決まっている。

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あにょYにょ。旅打ち⑦

思えば、本当に自由だった。

明日もあさっても、ずっと自由。

生活に不安もないし、

好きなことだけをして、生きている。

そんな夢みたいな日々だった、とは

当時は夢にも思っていなかった。

パチスロ打って、

麻雀打って、

好きなもの食べて、遊んで。

結局、この旅打ちは、

下関のパチンコ店で、

等価交換のなんか、香ばしいスロットにぼこられて

ふらふらになるくらいボコボコにされ、

10万円くらい負けて、

関門橋の近くの貝汁屋で

貝汁を食べて、

頭にきたのでカレーも追加で注文して

結果、わずか一日で帰宅して、

そのまま帰ることもしゃくだから

夜は、深夜の1時から

いつもの仲間と麻雀を打つことになる。

Yにょの残金は、遊びほうけているうちに

みるみるなくなり、いつもの

文なしのYにょになった。

お金を大事に、なんて感覚、存在していなかったから。




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