あしたのジョー

少年の日。

矢吹丈に憧れていた。

強くて、かっこいい、と。

けれど、この年齢になって

もう一度、しっかりと観てみると、

全然そんなことはなかったのだな、と気づく。

登場人物は刹那的で、

主人公の矢吹も「あした」なんて

ワードは、脳内には存在しない。

現在をどう生きるか?

それのみに終始している。

作品全体に漂う得も知れぬ「哀愁」。

それは、この刹那的な主人公の生き方にある、と感じた。

保留しない生き方。

保険を掛けない生き方。

打算のない生き方。

そのありのままの姿で生きる悲惨な人間の真実が

言いようのない哀しみを生む。

「あしたのジョー」を観ていて

賢くて、「あした」に備えて生きているはずの

我々が、「あしたに備えているがため」に

現在をおろそかにしているのではないか?

と、感じざるを得ない。

どうしようもなく、そう感じるのだ。

今日死ぬかも知れないのに、

明日のことなんか、考えてどうするんだ?

戦時中はそうだった、という。

だから、みな、その時を噛みしめて

おろそかにせず生きてきたのだと。

「あした」は「ない」のかもしれない。

「あした」が「ある」と甘えることで

「いま」の価値を希釈しているのかもしれない。

未来に甘えず、想いをため込まず

「いま」に叩き込む生き方こそ、大切なのではないか?と。

何も持たない、主人公矢吹丈は、

本人にしかわからない充足感を持って

真っ白な灰になる。

そこには、何の説明も言い訳もない。

生きる、というのは、

そういうことなのかも知れない。

自己実現の欲求。

それは、保留の誤魔化した人生観では

きっとたどり着けないのだ、と思うのだ。

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