諦観 どうでもいい→どうであってもいい


年を重ねると


「どうでもよくなって」くる。


さだ まさし先生の作品に「邂逅」という曲がある。


「思えば、世の中に、命をかけていさかい会うほどの


憎しみなどあろうはずもない」


というフレーズがあって、


生きていて、何か腹立たしいことがあると、


このフレーズを思い出して、事柄を時に流す。


それをここ数年繰り返してきた。


どうでもいい。


責任とか、大事な思いを放棄するのではなく


どうあってもいい。


どのようであってもよい、


どのようなことになってもいい、という感覚。


事象そのものを受け入れる感覚。


そうすることで、そういう感覚を持てることで


すこしづつ、あきらかになっていく。


きっと、生きていることの意味付けは、


われわれの様々な我欲によって生まれているだけ。


自然もそこにあって、人間も、ただそこにある。


だから、様々な事象と同じく、


きっと、自分の存在も単なる事象なのだ。


多分、人生の時間は、それに気づくための時間。


その最後の時に、透明になれたらよい。


どうあってもよい。


心の底から、受け入れることができるように。


そうして、生まれてきた意味を


あきらかにできたなら。


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