邂逅 [麻雀]
その、楽園ともいうべき麻雀荘での、私の成績は、良好だった。
不ツキのアヤを感じれば、もうその日は店じまい。ツイているときは、とことん攻める。
そんな、「身勝手な振る舞い」が許されていたからだ。
とにかく、お金が目的だった。
当時は、麻雀での僅かながらの副収入も必要だった。
たくさんいる常連客のなかで私だけが、「麻雀を打つこと」ではなく、「お金」を目的にしていた。
しかも、お金が目的と悟られぬよう、目立つ振る舞いは控えていた。ラスは引かないこと。
南2局からの、2着狙いなんて、常套手段だ。
2着にぶらさがることは、ある意味トップをとることよりも大切だった。
2着3回、トップ1回は、トップ3回、ラス1回より価値があった。
その日も、卑しくも、日当分を稼ぎ、雨足の強い帰路を気にしながらも、私はラス半コールを入れた。
店員2人入りでの、その日最後の対局。ゲーム代を先払いしようとした刹那、店のドアが開いた。
「打てるじゃろうか?」
声の主は、山のような大きな体をしていた。
人の良さそうな顔つきだが、目だけが妙にギラギラとしている。
「もし、邪魔でなければ、1.2回遊ばせてもらえんじゃろか?」
そう続けるその男に、店員は「どうぞ」と席を譲りルール説明を始めた。
「レートは・・・」そう口にする店員をその男は遮る。
「説明はええ。また、わからんことがあったら、教えてつかあせ」
謙虚なのだかなんだか、とにかく、私は、その男のことが気にいらなかった。
「レートもルール説明も無用とは、何様だ。偉そうに!気に入らない!」そう思い対峙する。
今日の私は、思いのほか、状態がよい。ツモリ続けてやる!
奇妙な静寂の中、対局が始まった。
対局の顔ぶれは、私と、店員さんと、20代の若者と、その大男の4人。
サイが振られる。
私は、南家。大男は、西家。私の正面の席に腰掛ける。
東1局 南家である私に、役牌の南が組まれる。
開局刹那、初牌の南を叩いてすばやく、南ドラ1、2000点を和了する。
(フリー麻雀のコツは、安手だろうとなんだろうと、とにかく手麻雀であがり続けること。
自分の手が安いということは、他家の手は高い。
自分が安手でもあがれば、他家のチャンス手をつぶすことができる。まずは、他家の形を払うこと。
そう、その頃の私は信じていた。)
いつもどおりの軽いあがり。いい感じだ。
そう思い、点棒を受け取る私の手牌に、強い視線を感じた。
大男が、遠くをみつめるような、慈しむような、なんとも表現できない表情で、
私の捨て牌と、倒された手牌を見つめていた。私ではない、麻雀牌を見つめていた。
「なんだ、この男は?なにか文句があるのか?」
私は、その大男になんともいえぬ不思議な感覚を覚えた。
いままで、こんな風に自分のあがり、自分の麻雀を強く見つめられたことなどない。
不気味であることはもちろんなのだけれど、なんだか自分の南ドラ1の和了が、
とんでもなくいけないことだったような、そんな気持ちまで、沸いてきた。
「ふざけるな!」
頭を振り、そんな雑念を振り払う。「いままでも、こうやって打ってきた。
結果は出ている。これからも、同じ様に打つだけだ。俺は間違ってなどいない」
次局は、私の親番だ。自分のアガリでひっぱってきた親番。
展開は良好だ。
私は、卓上に漂う違和感に気づかないふりをしながら、自分を信じて、次局に向かってサイコロを振った。
軽いアガリの後の親番、私が仕掛ければ他家は警戒して、手を遅らせるだろう。配牌を取りながら、「とにかく
食い仕掛けていこう」 私はそう考えていた。
配牌は、二四②④⑧⑨799発発東南北。ドラは7。
「よし、仕掛けて発ドラ1。親だし2900点で充分だ。
三や、③から食い仕掛ければ、タンヤオでを警戒させることができ、他家を牽制することができる。
最高の配牌だ。」密かにほくそえみながら、打北。暫くして、上家の三をチー打⑨。
二三四を晒す。⑤をツモリ打⑧。
だが、マンズの下を仕掛け、ピンズの上の愚形⑨からを払うことで、
タンヤオ、下の三色を思わせ、タンヤオ三色ドラ1、親の5800点をおもわせたかった。
③をツモリ打南。二三四チー ②③④⑤799発発東 6巡目に、待望の発をポン
。打東。タンヤオに見せかけて、役牌を鳴く。
当時は、これが私の必勝パターンだった。二三四チー 発発発ポン ②③④⑤799。
次巡②をツモリ、打9.ドラを生かした、カン8待ちだ。7巡目、2900点の聴牌。
ちらりと、大男の捨て牌を見る。4巡目に8を切っている。「よし、いい展開だ。
あの大男からあがってやる。」
「しめしめ」そう思いながらも無駄ツモが続く、12巡目、ツモッてきた⑤を空切りする。
「これで、ピンズも打ち辛いだろう。」、大男の河をみつめる。
「早く8出ないかなあ?」私は大男の河を見つめ待ち続ける。
しかし、大男は、親である私の⑤手出しに、③、④とピンズの両面ターツをはずしてきた。
なんとも不気味である。「私に、もしドラ7がトイツで入っていたら、12000点の可能性だってあるのに。
大男がドラを持っているのだろうか?」大男の4巡目のドラ切りが、不気味に光る。
だが、4巡目にドラを重ねていながら、12巡目、13巡目に危険なピンズの両面ターツはずしとは、
どういうことだろうか?大男の捨て牌は、あらゆる牌構成を私に想像させた
。序盤8切り、東のあわせ打ち、でホンイツは考え辛い。
タンピンだろうか?15巡目に私は5をツモ切る。しかし、8は釣れない。
大男も次巡5を手出し。
予想外にも流局だった。おそらく私以外全員ノーテンだろう。
2900点のあがりも、ノーテン罰符の3000点の収入も、私にとって、充分な結果だ。
そう思い親である私から、手牌を倒す。下家はノーテン。しかし西家の大男が、手牌を晒した。
私は不覚にも、驚愕を隠せなかった。12233468西西西南南。!!!カン7待ちメンホンの聴牌である。
しかも肝心なドラも使ってない。大男の模打は4巡目には8。
終盤に5手出し。8でなく5を切れば12233456西西西南南の高め1ハネツモ3面待ち聴牌なのに。
「間違いない。カン8を一点で読まれた。しかも、メンホン聴牌。」
偶然ではない。何なんだ?この男は?仮にカン8を読めたとしても、麻雀には入り目がある。
一点で読むことなど不可能だ。しかも、8を切れば、最終形の3面待ちの聴牌。
8切りを我慢などできるはずはないのだが。
大男は、また、わたしの手牌と捨て牌を見つめている。
その表情は、うまく読み取れないけれど、さびしそうにも映る。
「もしかして、とんでもない相手なのか?何故、こんな安レートの雀荘に?」
もう既に、私の気持ちは完全に飲まれていた。自分の信じていた麻雀が、ひどく稚拙にも思えた。
「でも、それでも、自分のフォームを信じるしかない。これしか自分にはないのだから。」
私は、次局も軽く仕掛けるべく、いつもより少し長めに、また、祈るように、サイコロのボタンを押した。
不ツキのアヤを感じれば、もうその日は店じまい。ツイているときは、とことん攻める。
そんな、「身勝手な振る舞い」が許されていたからだ。
とにかく、お金が目的だった。
当時は、麻雀での僅かながらの副収入も必要だった。
たくさんいる常連客のなかで私だけが、「麻雀を打つこと」ではなく、「お金」を目的にしていた。
しかも、お金が目的と悟られぬよう、目立つ振る舞いは控えていた。ラスは引かないこと。
南2局からの、2着狙いなんて、常套手段だ。
2着にぶらさがることは、ある意味トップをとることよりも大切だった。
2着3回、トップ1回は、トップ3回、ラス1回より価値があった。
その日も、卑しくも、日当分を稼ぎ、雨足の強い帰路を気にしながらも、私はラス半コールを入れた。
店員2人入りでの、その日最後の対局。ゲーム代を先払いしようとした刹那、店のドアが開いた。
「打てるじゃろうか?」
声の主は、山のような大きな体をしていた。
人の良さそうな顔つきだが、目だけが妙にギラギラとしている。
「もし、邪魔でなければ、1.2回遊ばせてもらえんじゃろか?」
そう続けるその男に、店員は「どうぞ」と席を譲りルール説明を始めた。
「レートは・・・」そう口にする店員をその男は遮る。
「説明はええ。また、わからんことがあったら、教えてつかあせ」
謙虚なのだかなんだか、とにかく、私は、その男のことが気にいらなかった。
「レートもルール説明も無用とは、何様だ。偉そうに!気に入らない!」そう思い対峙する。
今日の私は、思いのほか、状態がよい。ツモリ続けてやる!
奇妙な静寂の中、対局が始まった。
対局の顔ぶれは、私と、店員さんと、20代の若者と、その大男の4人。
サイが振られる。
私は、南家。大男は、西家。私の正面の席に腰掛ける。
東1局 南家である私に、役牌の南が組まれる。
開局刹那、初牌の南を叩いてすばやく、南ドラ1、2000点を和了する。
(フリー麻雀のコツは、安手だろうとなんだろうと、とにかく手麻雀であがり続けること。
自分の手が安いということは、他家の手は高い。
自分が安手でもあがれば、他家のチャンス手をつぶすことができる。まずは、他家の形を払うこと。
そう、その頃の私は信じていた。)
いつもどおりの軽いあがり。いい感じだ。
そう思い、点棒を受け取る私の手牌に、強い視線を感じた。
大男が、遠くをみつめるような、慈しむような、なんとも表現できない表情で、
私の捨て牌と、倒された手牌を見つめていた。私ではない、麻雀牌を見つめていた。
「なんだ、この男は?なにか文句があるのか?」
私は、その大男になんともいえぬ不思議な感覚を覚えた。
いままで、こんな風に自分のあがり、自分の麻雀を強く見つめられたことなどない。
不気味であることはもちろんなのだけれど、なんだか自分の南ドラ1の和了が、
とんでもなくいけないことだったような、そんな気持ちまで、沸いてきた。
「ふざけるな!」
頭を振り、そんな雑念を振り払う。「いままでも、こうやって打ってきた。
結果は出ている。これからも、同じ様に打つだけだ。俺は間違ってなどいない」
次局は、私の親番だ。自分のアガリでひっぱってきた親番。
展開は良好だ。
私は、卓上に漂う違和感に気づかないふりをしながら、自分を信じて、次局に向かってサイコロを振った。
軽いアガリの後の親番、私が仕掛ければ他家は警戒して、手を遅らせるだろう。配牌を取りながら、「とにかく
食い仕掛けていこう」 私はそう考えていた。
配牌は、二四②④⑧⑨799発発東南北。ドラは7。
「よし、仕掛けて発ドラ1。親だし2900点で充分だ。
三や、③から食い仕掛ければ、タンヤオでを警戒させることができ、他家を牽制することができる。
最高の配牌だ。」密かにほくそえみながら、打北。暫くして、上家の三をチー打⑨。
二三四を晒す。⑤をツモリ打⑧。
だが、マンズの下を仕掛け、ピンズの上の愚形⑨からを払うことで、
タンヤオ、下の三色を思わせ、タンヤオ三色ドラ1、親の5800点をおもわせたかった。
③をツモリ打南。二三四チー ②③④⑤799発発東 6巡目に、待望の発をポン
。打東。タンヤオに見せかけて、役牌を鳴く。
当時は、これが私の必勝パターンだった。二三四チー 発発発ポン ②③④⑤799。
次巡②をツモリ、打9.ドラを生かした、カン8待ちだ。7巡目、2900点の聴牌。
ちらりと、大男の捨て牌を見る。4巡目に8を切っている。「よし、いい展開だ。
あの大男からあがってやる。」
「しめしめ」そう思いながらも無駄ツモが続く、12巡目、ツモッてきた⑤を空切りする。
「これで、ピンズも打ち辛いだろう。」、大男の河をみつめる。
「早く8出ないかなあ?」私は大男の河を見つめ待ち続ける。
しかし、大男は、親である私の⑤手出しに、③、④とピンズの両面ターツをはずしてきた。
なんとも不気味である。「私に、もしドラ7がトイツで入っていたら、12000点の可能性だってあるのに。
大男がドラを持っているのだろうか?」大男の4巡目のドラ切りが、不気味に光る。
だが、4巡目にドラを重ねていながら、12巡目、13巡目に危険なピンズの両面ターツはずしとは、
どういうことだろうか?大男の捨て牌は、あらゆる牌構成を私に想像させた
。序盤8切り、東のあわせ打ち、でホンイツは考え辛い。
タンピンだろうか?15巡目に私は5をツモ切る。しかし、8は釣れない。
大男も次巡5を手出し。
予想外にも流局だった。おそらく私以外全員ノーテンだろう。
2900点のあがりも、ノーテン罰符の3000点の収入も、私にとって、充分な結果だ。
そう思い親である私から、手牌を倒す。下家はノーテン。しかし西家の大男が、手牌を晒した。
私は不覚にも、驚愕を隠せなかった。12233468西西西南南。!!!カン7待ちメンホンの聴牌である。
しかも肝心なドラも使ってない。大男の模打は4巡目には8。
終盤に5手出し。8でなく5を切れば12233456西西西南南の高め1ハネツモ3面待ち聴牌なのに。
「間違いない。カン8を一点で読まれた。しかも、メンホン聴牌。」
偶然ではない。何なんだ?この男は?仮にカン8を読めたとしても、麻雀には入り目がある。
一点で読むことなど不可能だ。しかも、8を切れば、最終形の3面待ちの聴牌。
8切りを我慢などできるはずはないのだが。
大男は、また、わたしの手牌と捨て牌を見つめている。
その表情は、うまく読み取れないけれど、さびしそうにも映る。
「もしかして、とんでもない相手なのか?何故、こんな安レートの雀荘に?」
もう既に、私の気持ちは完全に飲まれていた。自分の信じていた麻雀が、ひどく稚拙にも思えた。
「でも、それでも、自分のフォームを信じるしかない。これしか自分にはないのだから。」
私は、次局も軽く仕掛けるべく、いつもより少し長めに、また、祈るように、サイコロのボタンを押した。
憩いの雀荘シャア専用聴牌(麻雀) [麻雀]
昔話である。20年ほど昔、私が、麻雀を覚えて間もない18歳の頃、仲間達とよく出入りしていた雀荘があった。本来であれば、大学生になっていたはずのその春、我々はなにやらアテがはずれ、気がつくと望んでもいないのに、残念ながら哀愁漂う「浪人生」となっていた。まだ、何もかもバブルな、80年代後半 そんな時代だ。
その雀荘は、そんな肩身のせまい我々を、セット一時間1000円(1人250円)で打たせてくれていた。しかも、学生サービスという名目で、ドリンクまでサービスしてくれていた。(正価250円、当時はフリードリンクなんて有り得ない。)コーラか、オレンジジュース。店のオリジナルドリンクで、オロヤク(オロナミンCとヤクルトのミックス)なんていうのもあった。
当時、ゲームセンターの脱衣対局麻雀ゲームが、1ゲーム50円。それがものの数分でなくなってしまうことを考えれば、わずか250円で、一時間もリアルな牌に触れるなんて、望外な幸福だった。4人全員の所持金の合計が3000円にも満たない我々は、いつも長く打てて2時間くらいだったけれど、当時は何物にもかえがたい楽しい時間だった。お昼ごはんを30円(100円で3つ)のコロッケ一つで済ませている仲間もいた。どんなに空腹でも、それでも麻雀を打ちたかった。
麻雀が打ちたくて仕方のない私は、本来ならば麻雀とは無縁の人生を歩むであろう友人もむりやり雀荘にひっぱりこんでいた。はっきりいって迷惑な人間だったとおもう。
店の入り口に、「スポーツ麻雀」の看板が踊るその店は、入り口から左右2列並ぶ10卓がフリー麻雀。「ブー麻雀専門店」だ。奥の6卓がセット用の貸卓となっていた。入店した際、いつも我々は、フリー卓の中央の通路を小さい声で挨拶しながら、小走りに奥の貸卓エリアへ駆け抜けていた。奇妙な博打打ちの熱気が漂うそのフリー卓のエリアに、我々の存在はあまりにも不釣合いだと感じていたからだ。
その雀荘の店員も経営者も「浪人生」である我々には、限りなく優しかった。特に住み込み店員の「Sさん」には、ことの他かわいがられていた気がする。ピンフの作り方や、チートイツの作り方などは、「Sさん」に教えてもらった。だが、その「Sさん」も、私のフリー卓への同卓だけは決して許してはくれなかった。日々、私のフリー麻雀への想いは強くなっていく。ある日、3万円を握りしめ、「このお金はなくなってもいいから、たのむから打たせてくれ」、と嘆願したこともあったが、やはり、答えはNO.絶対に許してくれなかった。今、思えば、「若者を博打に引き込んではいけない」という、強い想いがあったのだろう。麻雀の麻は麻薬の麻。麻雀には麻薬並みの中毒性がある。今でこそ、本当にその意味がわかる。あの若さでブー麻を覚えていたらとんでもないことになっていただろう。
そんなある日、仲間より少し早くその店に着いた私は、店の奥、貸卓エリアの椅子に一人、隠れるように座り、植木の間からフリーの対局を、ドキドキしながら覗き見ていた。「マルA!」だの「6枚!」だの、意味のわからない言葉が飛び交う。卓上に出ている点棒の色から察するに、おそらく私の知っている麻雀とは異質なルールであろうことは察しがつく。支払いは現金のやりとりではなく、カードのやりとり。そして、1回のゲームの終了速度が異常に早い。けれど、みんな、生き生きとしている。見ているこちらもわくわくする。そんな折、突然くぐもった声が、響いた。
「おい。ちょっと、トイレ。誰かおらんか?」
ブー麻雀を打ちなれていそうな、おっさんが、立ち上がりおもむろに声をあげる。この店では珍しいことだが、このとき、店員の立ち番がいなかった。本走で対局中の他の店員は、入り口近くの卓に入っており、この「おっさん」の声は届かなかったようだ。「Sさん」の姿も見当たらない。
「おい。にいちゃん、ちょっと トイレの間、たのむわ。」
私に向けて発せられた言葉。まさに僥倖。私は、大きく頷くと、大慌てで卓についた。対局者は、「スナックのママ風なご夫人」と、「競輪場にいそうなおっさん」と「、パチンコ店にいそうなじいさん」。「こりゃちょろいわ。大物手炸裂させてやる」私は、勝利を確信していた。麻雀を覚えて2ヶ月弱、ゲームセンターの2人対局麻雀では、何度も役満をあがったことがあるし、本屋で麻雀の本を読み、役もしっかり覚えた。十三不塔なんていうのまで、知ってる。符計算だって5200.7700なら大丈夫だ。仲間内での対戦成績だってすこぶる良い。自信は猛烈にあった。
配牌をとると、赤、赤、赤、でまっかっか。シャア専用の手牌だ。速攻で(通常の3倍の速さで)ハネマンをテンパッた。どんな形だったかまでは、20年たった今ではもう覚えてはいない。ただ、赤くて、高くて、宝石のようにキラキラしていて。牌の両端を握りしめて、ロン牌が出てくるのをドキドキして、キョロキョロしながら待っていた。トイレから戻ってきた時の、「私に代走を頼んだおっさん」の笑顔が浮かぶ。「そうだ、このハネマンをあがって後から来る仲間に自慢しまくってやろう。」そう思った刹那。声がする。
「おい、あんた、それ、あがったら駄目やないね!」(あがってはいけないよ)
聞き慣れた「Sさん」の声。
「代走を私に頼んだおっさん」がトイレから戻ってきた。
なんだか、ものものしい空気になってきた。私は、こわくなってきた。とんでもないことをしてしまったのだろうか?
「Sさん」は私に、
「いいから、あっちにいっときなさい」(あっちへいってなさい)
そういって、私を貸し卓エリアに追いやった。
遠目に、ひたすら客に謝っている「Sさん」の姿が見える。
私は、何がなんだかわからなかった。ただ、場は、穏やかに収まったようだった。
暫くして、私の仲間がやってきた。私はなんとも惨めな気持ちで、仲間といつものように麻雀を打つ。いつものように、半荘2、3回だろうか。本当に放心状態。理由がわからなかった。
仲間との対局を終え、二時間のゲーム代500円を払うべく、店のカウンターへ向かうと、「Sさん」が店の看板を片付けていた。私が口を開くより早く、
「あんたには、まだ、ブーは早いよ。」
とやさしく微笑んだ。
8000点持ちのブー麻雀では、人をとばしての、終局(3人浮きでの終局)は、チョンボとなる。チンマイ。おそらく、私の赤いハネマンは、出アガリチョンボだったのだろう。
私は、それ以来、10年、ブー麻雀を打つことはなかった。我々はその雀荘へ、大学へ合格した後も、社会人になった後も、通いつめることになる。セットで打つときは、いつもその雀荘だった。他のフリー雀荘で「リーチ麻雀」を打つことがあっても、セットで打つときだけは、たいていその店だった。いつしかその店は、本当の意味で、我々の憩いの場となっていたのだと思う。
その店も、今はもう、ない。
目を閉じると浮かぶ、原風景。はからずも思い出す。今では、もう遥か遠く離れ、もう卓を囲むことも叶わなくなった、大切な仲間の声が、私の心に響く。深く深く染み込んでゆく。
もう一度、一緒に打ちたいと想う相手がいること。もう一度、一緒に打ちたいと想ってくれる相手がいること。これに勝る幸福はない。いままでも、いまも、そしてこれからも。
その雀荘は、そんな肩身のせまい我々を、セット一時間1000円(1人250円)で打たせてくれていた。しかも、学生サービスという名目で、ドリンクまでサービスしてくれていた。(正価250円、当時はフリードリンクなんて有り得ない。)コーラか、オレンジジュース。店のオリジナルドリンクで、オロヤク(オロナミンCとヤクルトのミックス)なんていうのもあった。
当時、ゲームセンターの脱衣対局麻雀ゲームが、1ゲーム50円。それがものの数分でなくなってしまうことを考えれば、わずか250円で、一時間もリアルな牌に触れるなんて、望外な幸福だった。4人全員の所持金の合計が3000円にも満たない我々は、いつも長く打てて2時間くらいだったけれど、当時は何物にもかえがたい楽しい時間だった。お昼ごはんを30円(100円で3つ)のコロッケ一つで済ませている仲間もいた。どんなに空腹でも、それでも麻雀を打ちたかった。
麻雀が打ちたくて仕方のない私は、本来ならば麻雀とは無縁の人生を歩むであろう友人もむりやり雀荘にひっぱりこんでいた。はっきりいって迷惑な人間だったとおもう。
店の入り口に、「スポーツ麻雀」の看板が踊るその店は、入り口から左右2列並ぶ10卓がフリー麻雀。「ブー麻雀専門店」だ。奥の6卓がセット用の貸卓となっていた。入店した際、いつも我々は、フリー卓の中央の通路を小さい声で挨拶しながら、小走りに奥の貸卓エリアへ駆け抜けていた。奇妙な博打打ちの熱気が漂うそのフリー卓のエリアに、我々の存在はあまりにも不釣合いだと感じていたからだ。
その雀荘の店員も経営者も「浪人生」である我々には、限りなく優しかった。特に住み込み店員の「Sさん」には、ことの他かわいがられていた気がする。ピンフの作り方や、チートイツの作り方などは、「Sさん」に教えてもらった。だが、その「Sさん」も、私のフリー卓への同卓だけは決して許してはくれなかった。日々、私のフリー麻雀への想いは強くなっていく。ある日、3万円を握りしめ、「このお金はなくなってもいいから、たのむから打たせてくれ」、と嘆願したこともあったが、やはり、答えはNO.絶対に許してくれなかった。今、思えば、「若者を博打に引き込んではいけない」という、強い想いがあったのだろう。麻雀の麻は麻薬の麻。麻雀には麻薬並みの中毒性がある。今でこそ、本当にその意味がわかる。あの若さでブー麻を覚えていたらとんでもないことになっていただろう。
そんなある日、仲間より少し早くその店に着いた私は、店の奥、貸卓エリアの椅子に一人、隠れるように座り、植木の間からフリーの対局を、ドキドキしながら覗き見ていた。「マルA!」だの「6枚!」だの、意味のわからない言葉が飛び交う。卓上に出ている点棒の色から察するに、おそらく私の知っている麻雀とは異質なルールであろうことは察しがつく。支払いは現金のやりとりではなく、カードのやりとり。そして、1回のゲームの終了速度が異常に早い。けれど、みんな、生き生きとしている。見ているこちらもわくわくする。そんな折、突然くぐもった声が、響いた。
「おい。ちょっと、トイレ。誰かおらんか?」
ブー麻雀を打ちなれていそうな、おっさんが、立ち上がりおもむろに声をあげる。この店では珍しいことだが、このとき、店員の立ち番がいなかった。本走で対局中の他の店員は、入り口近くの卓に入っており、この「おっさん」の声は届かなかったようだ。「Sさん」の姿も見当たらない。
「おい。にいちゃん、ちょっと トイレの間、たのむわ。」
私に向けて発せられた言葉。まさに僥倖。私は、大きく頷くと、大慌てで卓についた。対局者は、「スナックのママ風なご夫人」と、「競輪場にいそうなおっさん」と「、パチンコ店にいそうなじいさん」。「こりゃちょろいわ。大物手炸裂させてやる」私は、勝利を確信していた。麻雀を覚えて2ヶ月弱、ゲームセンターの2人対局麻雀では、何度も役満をあがったことがあるし、本屋で麻雀の本を読み、役もしっかり覚えた。十三不塔なんていうのまで、知ってる。符計算だって5200.7700なら大丈夫だ。仲間内での対戦成績だってすこぶる良い。自信は猛烈にあった。
配牌をとると、赤、赤、赤、でまっかっか。シャア専用の手牌だ。速攻で(通常の3倍の速さで)ハネマンをテンパッた。どんな形だったかまでは、20年たった今ではもう覚えてはいない。ただ、赤くて、高くて、宝石のようにキラキラしていて。牌の両端を握りしめて、ロン牌が出てくるのをドキドキして、キョロキョロしながら待っていた。トイレから戻ってきた時の、「私に代走を頼んだおっさん」の笑顔が浮かぶ。「そうだ、このハネマンをあがって後から来る仲間に自慢しまくってやろう。」そう思った刹那。声がする。
「おい、あんた、それ、あがったら駄目やないね!」(あがってはいけないよ)
聞き慣れた「Sさん」の声。
「代走を私に頼んだおっさん」がトイレから戻ってきた。
なんだか、ものものしい空気になってきた。私は、こわくなってきた。とんでもないことをしてしまったのだろうか?
「Sさん」は私に、
「いいから、あっちにいっときなさい」(あっちへいってなさい)
そういって、私を貸し卓エリアに追いやった。
遠目に、ひたすら客に謝っている「Sさん」の姿が見える。
私は、何がなんだかわからなかった。ただ、場は、穏やかに収まったようだった。
暫くして、私の仲間がやってきた。私はなんとも惨めな気持ちで、仲間といつものように麻雀を打つ。いつものように、半荘2、3回だろうか。本当に放心状態。理由がわからなかった。
仲間との対局を終え、二時間のゲーム代500円を払うべく、店のカウンターへ向かうと、「Sさん」が店の看板を片付けていた。私が口を開くより早く、
「あんたには、まだ、ブーは早いよ。」
とやさしく微笑んだ。
8000点持ちのブー麻雀では、人をとばしての、終局(3人浮きでの終局)は、チョンボとなる。チンマイ。おそらく、私の赤いハネマンは、出アガリチョンボだったのだろう。
私は、それ以来、10年、ブー麻雀を打つことはなかった。我々はその雀荘へ、大学へ合格した後も、社会人になった後も、通いつめることになる。セットで打つときは、いつもその雀荘だった。他のフリー雀荘で「リーチ麻雀」を打つことがあっても、セットで打つときだけは、たいていその店だった。いつしかその店は、本当の意味で、我々の憩いの場となっていたのだと思う。
その店も、今はもう、ない。
目を閉じると浮かぶ、原風景。はからずも思い出す。今では、もう遥か遠く離れ、もう卓を囲むことも叶わなくなった、大切な仲間の声が、私の心に響く。深く深く染み込んでゆく。
もう一度、一緒に打ちたいと想う相手がいること。もう一度、一緒に打ちたいと想ってくれる相手がいること。これに勝る幸福はない。いままでも、いまも、そしてこれからも。