永訣の時 [哲学するパラロス]

ソクラテスたんは、一杯の紅茶を飲み、

「これで、よい」

と、その存在を霧散させた、という。

チョーかっこいい。嘘つけ!このハゲ!とおもうけれど、かっこいい。

私は、その諦観した終末の瞬間にあこがれ続けている。

そうして、自分もそんな風にありたい、と願っている。

いつかきっと、死ぬこと、そのことを受け止めることができるようになりたい、と。

いずれおとずれる永訣の時。死。

いくらお金を持っていようが、ビンボーだろうが、関係ない。

嘘にまみれた人生だろうが、誠実だろうが、関係ない。

喜びも悲しみも、何もかも、全て関係なく、死は平等に万人におとずれる。

死ぬことは、そこに存在しなくなること。

ただ、存在がなくなること。それだけである。

ここで考えることは、いなくなることと、いなかったことになること、は

やはりその根底にある意味がまったく違う、ということだ。

前者は、あたかかく、後者は孤独だ。

その人がいた。ということを、忘れないでいたいとおもうこと。

忘れたくないと思うことができること。

いなかったことにしないこと。

ここに、その人間の永遠がある。

よく、「過去にとらわれる人間は、未来を失う」、などを謳い文句にした、

似非ポジティブ思考な、啓発本を書店でみかけるけれど、チョー低能だと思う。

大切なことは、「過去の経験を生かし、未来に繋げる」ことである。

うまくいかなかったことや、不都合なことを全てデリートして上書きするという

思考は幼稚だし、それこそ動物的であり忌むべき。

人としての未来はない、と思う。

変わらないものは、そのままその経験を生かし、未来へ、

変えることにできるものは取り入れ未来へ。

先人の残したものを、やはり大切にしたいではないか。

そのためには、その人との永訣の時には、渾身の勇気を振り絞らなければならない。

死の恐怖に囚われ、大切な人との別れを曖昧にしてはならない。

そんな風に考えていてふと自分のことを考える。

そうしなければならなかった。

20年前の母親との別れの時を、思い出さないときはない。

もう、死ぬことが分かっていて、余命告知を私と父は受けていて

「その辛そうな姿をみることが辛い」

とか

「まだ、大丈夫、奇跡はおこる」

と甘ったれたことを口にして、涙をこぼすばかりだった。

そういった根拠のない奇跡を信じて、大学に戻った。

死に目にも会えなかった。

私は、あの時、勇気を出して、母親におとずれる運命と戦わなければならなかったはずだ。

悔やまない夜はない。

しっかり、母親の思いを聞き取らなければならなかった。

しっかり、話しておくべきだった。

なぜ、向き合えなかったのだろうか?

怖かった。

病室に母親を置き去りにすることを、向き合うことが辛かった。

自分の心が傷つくことが怖かったのだ。

大切なことと、ほんとうの気持ちに、向き合う勇気が持てなかったのだ。

だから、友達と麻雀ばかり打っていた。逃げていた。

何をやっていたんだ、という話である。

本当に悔やまない夜はない。

(麻雀は、生きる痛みをその場では軽くしてくれたけれど、

かわりに私は物事に向かい合う胆力を失った。)

以来、ずっと、大切なことや、本当の気持ちを見失い、

その場限りの安易な生き方を選ぶ「向かい合わない」癖がついてしまった。

まるで、そうすることが「賢い」とでも勘違いしているように。

いずれ私も召されるとして、その永訣の時に、

私はきっと、「向き合わなかったこと」を後悔する。

とてもではないが、ソクラテスのようにはいかない。

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*物語シリーズ。鬼物語のラストシーンが秀逸だった。

 あんな風に、しっかりと話をして、その人との永訣の時を迎えたい。

 いなくなる、ということをしっかりと見据えて、その時を迎えたい。










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